子供じみて聞こえるかもしれないが、「進撃の巨人」で、あれほどの不理解と調和を残酷な形で表現した、という意味で、傑作だったと思います。


現に人はいがみ合い、解きほぐせない「歴史的事実」が、わかりあえるかもしれない、という希望を持って前向きに行動する者たちを、絶望に追いやる。


劇画の話だけではなく、繰り返される現実。


これまた子供じみて聞こえるものかもしれないですが、「機動戦士ガンダム」という作品で、ニュータイプ、という概念が出てきます。


敵味方の垣根を、肉親や友人を殺されたという憎しみをも超えて、理解し合える存在…。


それが、現実的に難しいという理解は必要です。分かりあえないことを否定的に捉えるよりも、分かりあえなくても折り合って行けるかもしれないという希望を持ちながら、行動していくために…。


原作者の富野さんは進撃の巨人のようなお話を肯定してはいないかもしれません。それもある種、理解できること。


一方で、「こんな温かさを持った人間が地球さえ破壊するのだ、それをわかるんだよ、アムロ」って言うふうに、善意の延長に虐殺があるかもしれない。それは「進撃」で、絶望を通して描かれたものでもありました。まるで、ハンナ・アーレントの言う、悪の凡庸さを再現するかのように…。


ニュータイプは出てこないかもしれない。出てきたとしても、殺し合いを繰り返すのが人類、と描いたのが富野さん。進撃、でそこに折り合いをつけていける「アルミン」がいる、ということを描いたのが、諫山さん。


アフガニスタンで奮闘した中村哲さんすら抹殺するのが、今の人類の真実。でも、それを受け継ぐ人は確かにいて、そこには自己防衛以上の強さを持ったものが、確実にある。


だから、ニュータイプでない我々は、オールドタイプができる最大限の折り合いをつけていかなくてはならない。その途上には、裏切られ傷つくことなんて、いくらでもあるのでしょう。しかし、そこに、最終的に根拠のない希望を見出し、「どうにかしていく」こと自体が、これまで人類が血を流しながら受け継いできたもの。そして、そうする智慧こそが人類の「叡智」ということ。


われわれ凡人は、何が正しいのかを日々自問自答しながら、自分ができることをやっていく。それこそが希望だという、根拠のない希望のもとに…。


だから、しんどくても明日を一つ踏ん張って、なにかみんなで共有できる幸せを見出すように生きていこう、って思える2つの物語でした。