(見る人によってはネガティブに感じるかもしれないので、自衛をお願いいたします)

 

 

 初めて世界地図を見たのは、いつだったろう。実家にあってもおかしくはないが、あったとしても日本地図止まりの可能性は高い。英語の先生が嫌いだった父は、そのまま海外旅行への興味を失ってしまったらしいから。

 やはり初めてとなると、伯母夫妻の家にある、英語版世界地図になるだろうか。伯父の海外出張でアメリカに住んでいたこともある彼らは、現地で購入したものをそのまま使っているものが多く、地図もその一つだった。当時はわからなかったが、きっと日本の景気が良かったときに購入したのだろう。

 行ったことのある国にダーツがささっていて、子供心に冒険心をくすぐられたのを覚えている。

 グルグル回る地球儀もアメリカ製で、土地の高低差を膨らみで表現していた。この地球儀は手触りが面白くて、私たち姉弟の格好の餌食になっていたものだ。さぞ目が回ったことだろう。

 

 でも、子供の頃に描いた冒険の地図は、大人たちのアメリカンドリームに負けないくらい、誰よりも自由で、希望に満ち溢れたものだった。

 

 「地図をつくろう」

 子供の頃、そんな遊びをした人も多いのではないだろうか。

 私も自分で架空の地図をつくっては、探検してみて、何も見つけられなくてがっかりするということを、飽きるほど繰り返した。

頭では何もないとわかりきっているのにやめられないのは、私が分別のつかない子どもだったからではなく、ただただ自分の想像に期待をしてしまうからだ。

 

 真っ白な画用紙を用意して、クレヨンを置いてみれば、そこからは私が創造神だ。

 宝箱を用意する。めちゃくちゃな道をかき足す。それだけで宝の地図は完成する。

 やたらと細かい地理の問題より、ずっと楽しい。

 

 年長者の言うことが絶対に正しいなんて、誰も言わない。

 子供の世界には、正解も間違いもない。

 ただただ、広い世界を好きな色が駆け巡るだけだ。

 

 それに引き換え、今の私が描ける地図の平凡さといったら。

 人生マップに将来の夢は設定できても、怪獣を倒す冒険談は加えられない。勇者にも、僧侶にも、憧れの魔法使いにもなれやしない。

 

 おまけに年功序列。年こうじょ列。ねんこうじょれつ。

 キラキラしたあたらしいかんがえは、おとなたちにはきらわれてしまう。

 それをうけいれるのがおとなになることなんで、おかしいんじゃないかな。

 それを受け入れるのが大人になる事なんて、おかしいんじゃないかな。

 

 どうしてあんなに綺麗なものを拒絶するのか、私には理解できない。

 

 若者が広げた地図は、簡単に踏みにじられる。

 やってみたいと言ってみたり、今までの地図を変えようとしたりすると、すぐに「権」を持った元冒険者に追いかけられる。

 そんなに悪いことだろうか。新しい冒険というのは。

 

 人生経験が豊富なのは、それは大層なことだと思う。

 それでも、それが他の人の地図を否定することに繋がってはいけないんだ。

 

 子どもの世界には、正解も間違いもない。

 

 「地図をつくろう」

 クレヨンじゃなくていい。色鉛筆じゃなくていい。好きな色じゃなくていい。

 勉強で使い古した、ボールペンでいい。シャーペンでいい。鉛筆でいい。

 画用紙じゃなくていい。自由帳じゃなくていい。真っ白じゃなくていい。

 必死でノートを取っている、ルーズリーフでいい、裏紙でいい、なんでもいい。

 大人の私だって、そのための「けん」があるはずだ。冒険していいはずだ。

 この冒険は、人生が続く限り、続けるものだから。

 

 誰かが言う。あるいは自分かもしれない。

 現実逃避だって。げんじつとうひ。

 そうかもしれない。

 けれど、その現実って、本当に冒険が楽しいところなの。

 与えられた地図って、そんなに面白いものかな。

 楽しく冒険ができないなら、なんでそんなところにこだわっているの。

 

 大丈夫。怖いことはない。

 夢を広げて、冒険者になるだけだ。

 

 地図を掲げてみたら、自然と仲間が集まってくることもある。

 新生パーティの誕生だ。

 参加者は若い人が多いけれど、たまにびっくりするくらい年上の人も参加する。

 そして、チームメンバーに敬われる人も出てくる。

 年功序列だって思ってしまうかもしれない。

 でも違う、その人はその人自身が敬われただけ。年上だからじゃない。

 だからこそ、最年少が敬われることもある。

 その人自身が尊敬できる、素敵な人だったから。

 

 さあ、どうやって魔物を倒そうか。

 大人の世界は、子供の頃に考えていたより、ずっとモンスターだらけだ。

 あっちにも、こっちにも。

 倒さなきゃいけない手ごわい敵がいっぱいだ。

 

 あっちにも、こっちにも。

 楽しい楽しいモンスター退治は、なかなか終わらない。

 それでも仲間たちと協力することで、絆を深めて、レベルアップしていくんだ。

 

 そうやって同じ地図をグルグルし続けていたら、グルグルしている時間が一番長くなる、自分たちが偉いって思うようになるかもしれない。

 

 でも違う。

 私たちはただの長期滞在者。

 短期滞在者が新しい発見をすることも多い。

 

 こどもの世界には、正解も間違いもない。

 

 大人だって子供で、子どもで、こどもなんだ。

 絶対に偉くて、正しい人はいないし、絶対に卑しくて、間違っている人もいない。

 

 自由には責任が伴うって、よく聞く。

 でも、本当の自由って、こどもの世界にあるんじゃないだろうか。

 あんなに活き活きと、ありもしない宝を探すこどもたち。

 宝があろうがなかろうが、子どもたちにとってはどうでも良いのだ。

 それなのに、子供だから判別がつかないなどと大人は言いたがる。

 そんなことはないのに。

 

 だってほら、大人の世界だって、きっと正解も間違いもない。

 

 けれど、政界の地図には、正解が用意されている。

 予め「中身の決まった」宝箱を置いてしまうんだ。

 そしてその正解は、若者たちの地図とは、似ても似つかない。

 

 若者たちは地図を広げさせてもらえない。

 マイノリティも地図を広げさせてもらえない。

 この国のルールからはじき出される人たちも、地図を広げさせてもらえない。

 

 経済力のある家系で育ったような人たちばかりが

 マジョリティという名の「権」に、有「権」者という「権」に、媚びるだけ

 

 なんて面白みのない、残酷極まりない地図なんだろう!

 

 見捨てて、見捨てて、見捨てまくっている。

 何人犠牲になった。

 何人犠牲にした。

 お前たちは、私たちは、何人の命を、冒険を、踏みにじって、その地図を生きている。

 その宝箱を手に入れることは、数万人の冒険を、数十万人の冒険を、数百万人の冒険を、否定するより大事なことなのか。

 わからない。わからない。どうして、この冒険が続いているのか。

 

 この冒険が延々と繰り返されることが正解だなんて、おかしくはないか。

 

 けんをもたせてはくれないか。

 私に。

 他でもないこの私に。

 

 剣を持たせてはくれないか。

 権を持たせてはくれないか。

 

 冒険を有利に進めるための剣を。

 冒険するための権を。

 

 私に。そして彼らに。この島国を生き抜く全ての人に。

 

 言霊を信じよう。古来より伝わるこの感性を。

 そうすれば、私たちはどこにだって行ける。伯母夫妻のダーツより、しっちゃかめっちゃかな、行ったところだらけの世界地図だってつくれる。この国にいながら、世界旅行してやるんだ。

 いろんな国の文化や言葉を理解して、ちょっと耳を背けたくなるような歴史も聞いて。

 古い地図を掲げる人に、できないなんて言わせない。

 

 私たちがつくる冒険談に、できないことはない。

 

 私たちの住むこの世界に、正解も間違いもない。

 

 私たちは地図を作り続けながら、生きて、生きて、生きていく生き物だ。

 その描き方は自由でいい。なんでもいい。