今朝、ガラテヤ書の5章24節に言葉を読んでいたんですね。

 

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

( ガラテヤ人への手紙 5:24 JDB )

 

自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたという言葉がすごく心に刺さって。

 

重要だなと思うのは、何を自分の十字架につけたのかってところ。それは、自分の肉なんですね。

 

で、自分の肉とは何かというと、前の節にちゃんと説明があって、

 

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。

 

( ガラテヤ人への手紙 5:19-21 JDB )

 

とあるわけです。

 

何でもそうですが、曲解しないことってすごく大切。

 

肉の欲って、食欲制限したりとか、滝に打たれたりとか、そんなことじゃ全然ないんです。

 

つまり、我慢することじゃ、ないんです。

 

自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけていますとか言って、我慢して、心の中で我慢が爆発しそうで、妬みいっぱい、憤りいっぱいじゃ、全然滑稽な話なわけですよね。

 

よくわからない独善的な「我慢」じゃなくて、十字架につけるのは、妬みとか、憤りとかの方ってこと。

 

 

 

こういう些細な勘違いがあると、どんどんおかしいことになっていくから、すごく注意が必要と改めて感じます。

 

というのも、敵は、聖書を曲解しているクリスチャン大好きだから。

 

クリスチャンじゃない人の方が、よほど喜んで生きているみたいな世界になっていったら、敵は勝利も同然。万々歳です。

 

 

 

ガラテヤの肉の行いは、どれも欲しくないもの。

全部、神様の愛の中に生きていくのを邪魔するもの。

 

淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のもの

 

これを十字架につける。

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

( ガラテヤ人への手紙 5:22-23 JDB )

 

そして、大切にして、大きく育てていくものは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。

 

最後の自制も、我慢のことではないから、勘違いしないことがとても大切。

 

自制って、セルフコントロールのこと。

 

つまり、空腹のときに、目の前に鳥のからあげがあらわれた。

 

みんなで分けて食べようね。とか。

お腹はちきれそうになって気持ち悪くなるまで食べるのはやめようね。とか。

 

こういうの、セルフコントロール。

 

だって、独り占めして、お腹はちきれそうになるまで食べて、気持ち悪くなっていたら、

 

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和が今度は難しくなってしまうから。

 

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

( ガラテヤ人への手紙 5:25-26 JDB )

 

はーい。

この誘いかけとっても好き。

 

御霊によって生きているのなら、御霊によって進む。

 

何によって生きているのかってすごく大切。それが生きるコンパスになるから。

 

感謝☆