イザヤ43章の4節の聖句について考えたいと思います。

 

この聖句はとても有名な聖句ですね。

 

私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛しているという聖句です。

 

「私の目には」というのは、神様の目から見て、私たち一人一人というものは高価で尊い。そして、神様は私たち一人一人を愛しているということですよね。

 

神様は神様の創造物である人間一人一人を愛しています。そして一人一人を本当に ユニークな存在として造り上げ、それぞれの人生に目的を持って造られたわけなんです。

 

神様の目にとって、私たちは高価で尊いんですね。

けれども、これを言葉通りに受け取るということができないという問題が人間側にあるんです。

 

神様の目には、高価で尊いと言われているにもかかわらず、自分が自分の目で自分を過小評価したりとか、卑下したりとか、自分を受け入れなかったりするーそうするといろんな問題が出てくるわけなんですね。

 

私たちをゼロから造り上げた命の源である創造主は、私たちのすべてを知っているわけなんです。

 

その創造主が、「あなたは高価で尊い」と言っているのであれば、その言葉をそのままストレートに受け取る必要があります。

 

創造主が「あなたは高価で尊い」と言っているのにもかかわらず、「いや私は、安価で尊くない」と言うのであれば、私たちはいつまでも神様と離れてしまいます。

 

何でもそうだと思いますけど、見ている方向が別々では、関係性というものを深めていくことはできません。

 

まして、そもそも、神様と私というのは対等な関係ではないんですね。

 

明らかな主従関係があります。明らかな上下関係があるわけです。

なぜなら、私という存在は神様によって造られたという明らかな関係です。

 

だから「あなたは高価で尊い。」を、「うん、わかるよ。神様はそのように見てくれるんだね。でも、私にはそうは見えない。私はこういう風に見るよ」っていうのは、 友人関係か夫婦関係、その他の人間関係だったら、人はそれぞれいろんなことを考えるね。個性だね。という風にして、話を終えることができます。

 

でも、神様と私との関係においては、そうではダメなんですね。神様が私の目にあなたはこうだと言ったら、それは真実であり、そうなわけなんです。

 

そういう風には見えない、そういう風には思えない場合は、私の方が間違っているわけです。

 

だから、「神様にとっては高価で尊いんだね。でも私は、自分をことを安価で、尊くなく見えるよ。」っていうのは、神様に対する反逆なんですね。

 

神様を神様とはしません。周りの人間関係と同じように扱います。誰かさんの発言と同じように扱わせていただきます。神様、あなたの言うことは真理ではありません。 としているのと同じなんです。

 

なので、自分を安価で、尊ばないなら、当然どんどん神様から離れていきます。神様と違う見方を選択するからです。

 

その結果、たどり着くのは暗闇であり、死です。

 

自己認識というものが歪んでしまうと、本当に人間というのはどこまでも破滅していくなと思います。 

 

神様が「あなたは高価で尊い」と言っている。それは「神様はいい人だから、愛の人だから、そうやって言ってくれるのね」とかそういう甘い話ではなくて、私たちに必要な態度というのは、神様の言葉として、そのままそっくり受け入れる。

 

神様が私を見るように自分のことを見る。

 

これが信仰に生きることであり、神様に対して従順に生きるということだなと思います。

 

今日も読んでいただいてありがとうございました☆

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