快適さというものについて考えたいと思います。
快適さというと、どんなことを思い浮かべますか?
私は昨日、ノートにいろんなことを書いていた時に、何かが快適でないと思ったんです。
一瞬、何が快適でないかを考えたら、机と椅子の高さが合っていなかったんです。
机に合う専用の椅子があったにかかわらず、その椅子を別の目的で使っていたことを忘れていました。私は長い間、高さの合っていない椅子を使っていたんです。
その結果、物を書くときに、椅子が低すぎて、腕が少し上がるような形になってしまっていたんですね。
普段そんなに机で物を書くことをしないので、腕がすごく疲れて、快適さを感じず、何かが変だと気づきました。
私は、ようやく何カ月も前に椅子を移動させたことを思い出すことができて、元の椅子に戻しました。
すると椅子が高くなって、腕が下がる形になり、重力がありますから、物を書くと腕の負担がなく、スラスラと書けたんですね。
マッチングが合っていないと快適さを感じません。なので、快適さを感じたいという私の思いのお陰で、家具を元に戻すことができました。
私たちは日常の中で、快適さというものを常に求めていると思います。
それがまさに文明の発展であり、100年前には存在しなかった便利なものが山のようにあります。
今では海外の人とやり取りするにもとっても簡単です。約10年以上前、私は海外の人と電話をするために、ファミリーマートに行って、国際電話のプリペイドカードを買って、固定電話からかけた記憶があります。
けれども、今はそんなことする必要は全くありません。
音声通話のアカウントがさえあれば、いつでもどこでも人と話すことが無料でできます。
すごく便利な時代です。
快適さは私たちに人間にとって、とても根本的な欲求であり、世代ごとに、どんどん快適になっています。
私の子供は、生まれた時からインターネットがある状態です。
今は便利だと自分が感じているものであっても、20年後、30年後、子供からは「昔はこんなものを使っていたの!?」という風に思われるようなものかもしれません。
とにかく快適さを求める欲求は、私たちの中で止まることがない、強いエネルギーがあるような気がします。
さて、クリスチャンライフにおいて快適さというものを考えるとき、1つ確実に見えるのは、神様の敵である悪の力というのは快適さをとてつもなく好んでいるということですね。
私たちの人生が快適になればなるほど、神様を必要としなくても生きられるかのような傲慢な態度で生きていた人間の歴史があります。
つまり、私たちは自分の力で何でもできると思う態度が強まれば強まるほど、悪の力にとっては大歓迎なわけです。
信仰には、ハングリー精神が必要です。
全くお腹が空いてなくて、信仰を持ち続けるということはとても難しく、多くの人にとっては達成し難いものになります。
時に困難や試練と思うようなことが人生の中であったとしても、振り返ってみた時に、その頃ほど、自分の信仰が試され、強められた時期はなかったりします。
私たちのこの人生というのは、とっても一時的です。
メジャーのつまみの部分でしかありません。永遠の世界に比べたら、まだまだリハーサルであり、練習であり、ほんのちょっとした時期なんです。
お腹の中にいる赤ちゃんに例えるなら、まだお腹の中にいて、全く広い世界を知らない状況です。
今生きている地上人生は、更に広大な世界に行く前の準備期間です。なので、ここであまりにも快適さを求めてしまうことは、少し危険が伴います。
なぜならここで完結してしまおうとするからです。
お腹の中の赤ちゃんが、お腹の中はあまりにも快適すぎると思って、ここから出たくない、ここにずっといたい。ここにずっといて、ずっと安心安全の中で守られたいとなると、素晴らしい広い世界を味わうことは決してありません。
だから、私たちは、快適さに対しては少し注意を払っていく必要があると思います。
神様は生ぬるい信仰というものを嫌います。私たちは熱いか冷たいかのどちらかです。
そして常に神様を求め、神様なしには全ての命がないこと。それこそ神様なしには今与えられてる恵み、快適さ、素晴らしさも全てがないこと。
このことをちゃんと受け入れて、今与えられてる恵みに大いに感謝して、そしてハングリーに生きていきたいなという風に思います。
今日も聞いていただいてありがとうございました☆
素晴らしい1日を送ってください☆
