こんにちは。
今回は、祈りについて書きたいと思います。
まず最初に、祈りとは、神様に向かって話す言葉であり、また私は同時に、神様に耳を傾ける時間でもあると思います。
そして大前提として、神様は神様です。だから、わたしたちが祈ろうが、祈らなかろうが、
わたしたちが考えていることは全部お見通し
です。
マタイの福音書6章8節には、父なる神は、お願いする先に必要なものを知っておられると書かれています。
それもそのはず。
神様は、わたしたちの髪の毛の数すら知っています。
では、なぜ祈るのか?って考えました。
分かってるなら言わなくてもよくない?とかひねくれたことを考えてしまうのが私だからです。
聖書に祈れって書いてあるから!っていうのが答えで以上かもしれませんが、あえて付け足すなら、
神様はわたしたちとの関係性、コミュニケーションをとても大切にしているから
とも思います。
あともう1つは、神様っていうのは私たちのこと全てお見通しで、万能性を持ってるけど、私たちは当然神様のことを全てお見通しで、万能性を持ってないわけなんですよね。
神様って神様が持っている万能性を行使して、私たちが祈ってもいないのに、言ってもいないのに、「お見通しだよ!」と、ホイホイ勝手に先回りしたり、行動したりしないっていうのが、神様なんだなって思います。
押し付けがましくないというか。権力の行使をしない。人をコントロールしようとしたり、操ろうとしたりしないのが神様。
だって、愛だから。神様は。
幼い子供が、アイスクリームほしいのが親はわかっていても、実際に「アイスクリームほしい」と言うのを待つように。
自転車の補助に外したらこけるかもしれないって分かってるから、一生外さないのもおかしいし、後は絶対にこけない年齢になるまで外さないのもやっぱりおかしい。
こけると分かってるからやらないじゃなくて、こけるかもしれないってわかっているけれど、やらせてあげる。これも愛。
だいぶ、祈りの視点からは、話がずれてしまいましたが。
とにかく、分かってるからって言わなくていいわけじゃない。
心の中での思いは神様は既にご存知だけど、「神様!」って話しかけられるのを、今か今かと待っていてくれる、それが神様。
それがやっぱり神様の寛大さなのかなって思います。
神様のへりくだりの態度でもあるのかな。私たちと対等な位置に立ってくれてる。これも、信じられないぐらいの愛。
私の経験上、神様に話しかけて、いや、それも分かってるよ!いちいち言わなくていいよ!って言われたことが一度もないんです。
でも1つだけあるユニークな経験が、5年くらい前に私が泣いてて、どうにもならない状態で、
神様どうしてこんなことになってるんですか?
みたいなことを泣きながら言ったことがあるんですね。
で、その時に言われた言葉が、今具体的に言葉として覚えてないのですが、意味としては、「だから、何?(私に何の関係があるの?)」というような内容をボソッと言われたんですよ。
で、ここからは鮮明に覚えているんですけれども、その瞬間、私の涙もわめきもすべてストップして、ケロッとして一瞬で日常に戻ったという経験があります。
これは非常に衝撃でした。私から来たものではないから、少なくとも私の中にあるものではなかったです。
声の主が神様かどうか確信があるわけじゃないけれど、御使いかもしれないけど、でもその後も導きからはどう考えても神様としか思えなかったので、やっぱりこれも神様からの愛だったんだけど、今はわかります。
子供が泣きわめいていて、親が見ている時だけ泣きわめいといて、親が見ていないってわかった瞬間にもう泣くの意味ないからやめようみたいな…そんなのに似ているような感じでした。
話がだいぶわき道にそれましたので、祈りの話に戻ります。
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神様はわたしたちが、話しかける時、全力で聞いてくれます。割り込んだり、話半分で別の話に切り替えたりなど絶対にしません。神様は忍耐を持って、わたしたちの話を聞いてくれます。
そして、神様はわたしたちを助けたくて、愛したくて、たまらないんですね。
マタイの福音書6章9節からは、イエスが具体的にこのように祈りなさいという言葉が続きます。
有名な主の祈りです。
この祈りの言葉は、まさに天国に繋がる道です。この祈りの言葉を細かく見ていきたいなと思います。
最初が、9節、神様の名前があがめられますようにという言葉です。
神様はこの時点ですごくテンションが上がると思います。だって、この世界は神様のために、神様によって造られたわけだから、その創造者の素晴らしいわざを私はちゃんと注目していますよ!っていう宣言だからです。
そして、10節が神様の国が来ますように。これも、神様はめちゃくちゃテンションが上がります。
だって、これこそ、すべての目的だからです。黙示録では、イエス様は再臨して、神様の国を完成させます。
すべての罪を消し去るんです。神様はその計画に向けて、今も着々と働きをされています。
神様は真実を堂々ということを推奨しているなという風に思います。
例えば、神様は素晴らしいことは明らかだけど、それに対してちゃんと神様は素晴らしいと言うとか。
神様は万能であることは明らかだけど、それに対してもちゃんと神様、あなたは万能ですって言うとか。
明らかだから言わなくていいですよではなくて、明らかなことをちゃんと口にして言葉にすることをすごく神様って求めているんだなってのがわかります。
そして、10節の後半が、神様の心が天で行われるように、地上でも行われますように。
これも究極です。
つまり、地上は、まだまだ天国から程遠いのはわかっています。でも、この私に、地上にいる私に、あなたの天国で行われている心(最上級のSランク、六星ランク)を、地上にもお願いします!って言っているわけです。
神様の力を放って!って言っています。この時点で、どれだけ神様がすごい人であるか、認めているからこそ、信仰があるからこそ、祈れる言葉です。
神様は、ここでまたテンションガンガン上がります。(と、私は推測します。)
そして、11節からは、まさに神様がわたしたちに望んでいることが続くなと思うんです。
つまり、神様がわたしたちにこういう風に生きてほしいと思っていることを、私はあなたの思い通りに望みますという態度に感じます。
神様の心と自分の心が一致するということですね。
11節、わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えくださいは、家も仕事も経済も必要なものも、全て神様から与えられていることを認めている証拠、わたしたちは一時的な管理者に過ぎず、全部神様のものですと言っています。
この態度はとても重要です。
すべては神様のものです。
だから、今日も私は仕事を頑張ります。なので、お金を稼ぎます。ではないんですね。
仕事そのものが神様から与えられています。そこで頂けるお金も神様から与えられています。そこで頑張る力も神様から与えられています。
なので、仕事もお金も、頑張る力も、与え主の神様、与えてくださいという態度です。
そして、12節の罪を赦してください・・・これはもう言うまでもないですね。イエス・キリストは全人類の罪の贖いのために来てくれました。
今日も明日も、未来永劫、人間はイエス・キリストなしには、罪からは切り離されません。
わたしたちは人類の一番最初の先祖、アダムの子孫です。罪は常にあります。なので、今日は赦してください。明日はいいです。なんてことはなく、四六時中、罪の赦しが必要なのが人間です。
そして、四六時中、信じる者には、罪を赦してくださっているのが神様です。
なので、罪を赦し続けてくれる神様に、罪を赦してくださいというのです。
これも明らかだから言わなくていいでしょ!じゃなくて、明らかなことを、真実のことを、ちゃんと言葉にして出すっていうことの重要性が伝わってきます。
そして、同時に、神様は人の罪も赦せと言っています。
赦すのに早くなると、人生がみるみる変わっていきます。人間関係が驚くほど良好になり、夫婦関係の中に、リアルに喧嘩がなくなります。
怒るのに遅く、聞くのに早く、語るのに遅く…に追加して、赦すのに早く
これはもう、私の中では、人生の鉄則です。
神様からただでりんごをもらい続けているのに、人に一つもりんごを与えないなんて、神様からしたら、「おい!!!」ってなってしまいます。
神様は赦し続けてくれています。だから、わたしたちも、自分がどう感じるか感じないかとか、自分の気持をベースに考えるのではなく、神様が赦し続けてくれているのだから、赦すんですね。
そして、この祈りの中では、「赦します!」と言っているんですね。私は第3版の新改訳ですが、「赦しました!」になっています。つまり、もうやりました。ということなんです。神様、テンションだだ上がりだと思います。
そして、13節、わたしたちを試みに会わせないで、悪からお救いくださいとありますが、これはすごく謙虚さがあらわれている祈りだと感じます。
つまり、私たちは弱いんです。
弱いから試みがあるとすぐに誘惑されてしまうんです。そしてすぐに悪の道に行ってしまうんです。だからこそ試みに会わせないで、悪から助けてくださいという風に言っているんですね。
人間の弱さを認めた上で、神様の凄さに対して、懇願しているんだなという風に思います。
この態度もへりくだりの態度です。神様は試みに合わせないで、悪から救ってくださることができることを認めているんですね。
神様は、このように信仰を持って神様に助けを求める人を喜んで助けてくれます。
以上、祈りについて取り上げました。
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私はあまり主の祈りをしていません。教会で礼拝中にたまにそれが取り上げられた時にするくらいです。
ただいまこうやって取り上げてみて、主の祈りの要素は非常に重要なものばかりだなという風に思いました。
私は最初に書かれていた、神様の名前をほめたたえますとか、神様の心が地上にもなりますようにとか、そこら辺のことはいつも祈っています。
けれども、自分の罪の赦してくださいって何度も祈ってたかなあと思うと、そうでもないなあと思います。これでは、随分と傲慢です。
これを機に改めて祈りの要素をしっかりと祈っていきたいと思います。神様にテンションだだ上がりになってほしいです。神様に喜んでもらうことは自分の人生の目的です。
絶えず祈りなさいと言う、テサロニケ手紙を思い出してしっかり祈っていきたいと思います。
あともう1つ。祈る時にあまりプレッシャーを感じる必要は全然ないと思います。
つまり綺麗な敬語を使う必要も全くないし、なんか声色を変える必要も全然ないと思います。
アナウンサーみたいな声を出す必要も全然ないと思います。もっともっと自然体に天のお父さん!という感じで語りかけるのですがいいと思います。
祈ることにプレッシャーを感じるのが良くない理由は、単純に祈る回数が減ってしまうからです。
服装だってどうでもいいし、パジャマでもいいし、格好だってそんなに気にしなくていい。
あんまり祈ることの体制とか、そういったものに注意をしないことは、祈りの回数が増えるきっかけになると思います。
祈ることに構えてしまって、祈ること自体が減ってしまうなんて、本末転倒ですから。
だからどんな声だろうが、テンション低めの声だろうが、ボソボソとした声だろうが、気にしない。
話すんじゃなくて、文章にしようが、神様そんな細かいことに対していちいちあれをこれ言ってくる方ではないですから、あんまりそんなことにプレッシャーを感じないで、肩の力を抜いて、軽く呼吸のようにさらっと祈る、
でも疑わずに祈る
これでいいのかなという風に思います。
皆さんはどんな祈りをしていますか?
