今朝はバイブルスタディがあって、次の聖書箇所が取り上げられたんですね。
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
ガラテヤ人への手紙 6:1 JA1955
私はちょっと極端に考えるところがあって、こういう聖書箇所を見ると、家庭内暴力を受けてる奥さんをどうなるのかっていうことを考えたんです。
しかも、その奥さんがクリスチャンだった場合です。
クリスチャンで、家庭内でひどい扱いを受けてるにもかかわらず、甘んじている人や、それどころか、ひどい扱いを受けるのは、私が悪いからだ!とか、私が良くない行動したからだ!とかいうふうに本気で思ってる人はどうなるんだろうって。
暴力を受けることを正当化してる人です。
で、もしそういうクリスチャンがこの言葉を聞いた時に、
「そうだよね。ある人が罪に陥っていて、
暴力をしないといけないぐらいまでに罪に陥ってるなら、
霊の人である私は、柔和な心を持ってその人を正さないとね。」
なんていう風に勘違いしたら、
神様って鬼じゃん!
って話になります。
そして、多分、家庭内暴力悪化します。
見えないところで、家庭という閉鎖的な場所で、教会にすら表面化されない場所で、その人は延々と苦しむことになります。
ちなみにバイブルスタディで私がこのことを質問というか、意見として言ったら、
その場合は、警察を呼ぶような話だ!という意見が出ました。
もちろんそうなんです。
暴力を受けて身体的安全が脅かされてるような状態では、警察を呼ぶっていうのが普通のことだと思います。
泥棒が家に入ったら、警察をすぐ呼ぶように。
だけど、その相手が夫だっていうふうになった時に、簡単にそれをできない人は?
そういう人は、どうすればいいのかな?なんてことを考えました。
それを考えた時に、やっぱり思ったのが、クリスチャンとしてのアイデンティティがしっかり確立しているということがすごく重要だなと。
神様は、
一人一人を高価で尊いとしてものすごく愛してる
んです。
私たち一人一人は、神様の目から見たら宝物のようなものです。
宝物なのにも関わらず、誰かの暴力を受けているのであれば、宝物なのに、ゴミ扱いされてます。
ゴミ扱いされてるのに、ゴミ扱いされているということを受け入れるのは、結局のところ、
宝物だということは受け入れていなくて、自分はゴミ扱いされても当然で、ゴミ扱いされるに値するんだ!
と信じているのと同じだなと。
神様は、決して私たちをゴミ扱いしません。
暴力を受けるって、やっぱりゴミ扱いなんです。病気だとか色々と事情はあるにせよ。
神様に信仰を置いて生きていくなら、私たちはやっぱり、もしゴミ扱いする人が現れたら、距離を置くべきだし、そしてゴミ扱いする人に対して断固とした態度を持つということはすごく重要。
なぜなら、人をゴミ扱いするのは、罪だからです。
神様は私たちがゴミ扱いされることを望んでません。それに、神様は、私たちをゴミ扱いを絶対しません。自分の思考が自分をゴミ扱いしたり、他人がゴミ扱いするのを許してしまっています。
なので、その意味からもう一度最初の聖書箇所、
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
ガラテヤ人への手紙 6:1 JA1955
を、激しいバージョンにしてみます。
兄弟たち、もしある人があなたをゴミ扱いして、あなたのことを殴り倒してくるようなことがあったりしたら、霊の人であるあなたは、柔和な心を持って、その人のゴミ扱いを受けることを拒みなさい。
それと同時に、自分も人をゴミ扱いしたりはしていないかと反省しなさい。
でもその反省は今じゃなくて、目の前の危険が過ぎ去ったあとでいいですから、今はあなたが目の前でゴミ扱いされてるので、その扱いを受けることを阻むところから始めなさい。
かなと。
神様はいつも優しい方です。
時に、神様は聖書で厳しいことを言ってるように思っても、全部愛のメッセージです。
私たちが勝手に神様に見捨てられたとか、勝手に考えることがあるかもしれませんが、それを全部私たちの勝手な思考です。
神様は今も昔もこれからも変わりなく愛の方です。
そして、神様の目にとって私たちはいつでも宝物です。
