クリスチャンになる前も、なった後も、「悔い改め」という言葉は、私にとっては、結構重たい言葉でした。

自分が祈りをする時に、ふっと気づいたら、こうしてください、ああしてくださいと、あまり感謝の言葉も言わずに、自分の願いばかり言っていた時期もありました。

でも、私は今は、クリスチャンの生き方というのは、悔い改めにこそあるなという風に思うんです。
罪を告白しなさいという風に書かれていると、なんだかすごく重苦しいように感じることもあるかもしれませんが、これは単純に自分の中にある良くないもの、罪、悔い改めるべきもの、これを神様の前に出して、正直になるということだと思います。

神様は私たちが正直になる前から、私たちの全てをご存知で、私たちが正直になろうがなるまいが、神様は私たちが考えていることを知っています。

たとえ他の人の前では仮面をかぶることができても、神様の前で仮面をかぶることはできません。

私たちが口にしようが、態度に表そうが、表すまいが、神様は全部をご存知なんです。

それを知った時に、私はむしろ悔い改めた方がよっぽど自分の気持ちがスッキリするなと思いました。

私の中には完璧主義という罪があります。全てのことを完璧にしたい、 全てのことを100%にしたいという、そういう罪です。

この罪は、私に、与えられているものに感謝するところから逸らさせます。与えられてるものに目を向けず、足りないものに目を向けるように仕向けます。

この罪と何十年も生きてきました。でも神様に、正直になって、私には完璧主義という罪があります。そのことを悔い改めますと祈って、私は、本当に解放されていきました。

神様は、私の全てをご存知だけれども、私が口でちゃんと告白し、罪を悔い改めますということを待っています。

なぜなら、人間はロボットじゃないからです。人間には神様の意志がありますが、神様は神様の意志を、人間に強制的に実行させるようには人間を創造していません。

私たちには自由意志があるんです。私たちは愛を選ぶのか、罪を選ぶのか毎日毎日その選択に迫られます。

そして神様は私たちは自らの意志を持って愛を選び、光の方へ向いていくことをとても喜ばれています。

私はもっともっと神様に近づいていきたいからこそ、もっともっと自分の罪を告白し、そしてもっともっと自分の暗闇をさらけ出し、そしてもっともっと神様に清めてもらうという選択を今日もしていきます。