自分のことが好きですか?自分のことを愛していますか?という質問をされたら、なんとなく気持ち悪いとか、ナルシストとか、恥ずかしいとか、ちょっとそういう話はしたくないとか、そういう気持ちになったことはありますか?
自分のことはどうでもいいから、とにかく人に対して、役に立つように、人に対して良くするように…そういうことに価値を置いていますか?
自分自分っていう風になっているのは、見にくいと思って、自分のことなどは、後回しにして、他の人のことを大切にしていますか?
この言葉は時として、他の人を愛しなさい、神様は愛なのだから、人を大切にしなさい、人を愛しなさいという言葉ばかり意識されますがちです。しかし、聖書にはちゃんと、自分を愛するようにという風に書いてあるんです。
自分のことを愛しているのか?と言った時に、これに対して100%、心の底から愛しているという態度と信仰は、神様との関係においてとても大切なことです。
自分を愛するように他の人を愛するというのは、結局のところ、人は自分を愛してる以上に、人のことを愛することができないということを表しているんだと思います。
クリスチャンの中で、神様のようになろうとする人がいます。自ら、自分が十字架に磔になったかのように、自分は凄まじい痛みと犠牲を引き受け、そして本当は苦しいのに、苦しいとは言わず、他の人に対しては良い顔をし、尽くしている人がいます。
それは聖書的でしょうか?クリスチャンとして素晴らしい姿でしょうか?
私はそうと思いません。なぜなら、私たちは所詮人間だからです。
そして、私たちは自分自身を犠牲にし、自分自身が十字架で磔になるかのような生きていくということは、イエスの十字架は何だったのかということが浮かんできます。
神様は私たちの罪を全て支払ってくれました。全てです。少し残ったとか、一切ありません。全てを支払ってくれました。
私たちはこの地上で生きてる限り、まだまだ罪と向き合って生きていかなくてはいけません。未来も罪をおかします。でも、救われた私たちのことを、天のお父さんは、私たちの罪を見るのではなくて、イエスという衣を着た私たちとして、見てくれます。
だから私たちによってではなく、イエスの血潮によって、完全に清められた私たちを見るわけです。
こういうことを話すと、じゃあ私たちはどうせ清められてるのだから 、罪をしたって、何だっていいじゃないかという風に、履き違える人もいるのですが、そういうわけでもないんです。
人を愛さなくても、人を傷つけても、イエスは私たちのことを愛してくれるかといえば、答えは愛してくれるです。神様は罪は憎みますが、その罪人の私たちを心から愛してくれています。
でも、私たちは神様の目的のために作られました。そして神様のために生きるように、デザインされました。
だから、私たちが自分を愛さず、人を愛さない時に、私たちは苦しむことになります。なぜなら神は愛だからです。なぜなら、神は私たちをそのように創造されてないからです。
神様の命令というのは、とてもシンプルです。まず自分を愛しなさい 、そして自分を愛するかのように、他人を愛しなさいです。
人間は神様のような大きな愛を持っていません。自分を愛することができない人に、他の人は愛することはできません。
自己犠牲と我慢によって、人を大切にしても、それは恐れからであったりとか、愛ではなくて、結局自分がよく見られたいだけの自己中心性であったりとか…そのような偽善的な愛、聖霊の力に頼らない自己犠牲的な愛、形だけの、見せかけだけの愛は、結果的には続くことができず、恨みや我慢が爆発して、怒りに変わったり、結果的に人間関係を壊したり…世の中そんな問題がたくさん溢れてます。
私たちは永遠ではありません。私たちの努力はとても断片的であり、そして神様に到底及びません。
私たちにまずできる第1ステップは、自分を愛すること。そのことに対して、ためらわずに、とにかく自分を大切にすること。
なぜなら、神様は私たち一人一人をデザインしたからです。神様が作った自分を、神様が愛してるならば、その自分を自分も同じように愛するというのは、神様に対して感謝を示すことになります。
そして神様の創造物である自分という作品を十分に愛し、それができてはじめて、そして他の人たちも自分と同じように、神様の大切な創造物であることを知り、愛するということができるようになるんです。
