さて、ラザロという名前の人が病気にかかっていました。彼はマリヤとその姉マルタの兄弟で、ベタニヤという村に住んでいました。このマリヤは、イエスの足に高価な香油を注ぎ、それを髪でぬぐったことで知られる女性です。そのマリヤの兄弟ラザロが床に伏していました。 マルタとマリヤが、イエスのもとに使いをよこしました。「先生。あなたが心にかけてくださっているラザロが重い病気にかかり、明日をも知れない状態です。」 この知らせを聞いたイエスは言われました。「この病気は、ラザロの死で終わるものではありません。神の栄光が現されるためです。それによって神の子が、栄光を受けるのです。」 イエスは、マルタたち三人を心から愛しておられました。 けれども、なぜか、なお二日間そこにとどまって、なかなか腰を上げようとはなさいません。

ヨハネの福音書 11:1‭-‬6 JCB


新約聖書の中でも、ラザロの死とその復活というのはすごく有名な箇所。

死から蘇った人は、イエスとラザロ以外に、まだいるのかな・・・

とにかく、このラザロの死というのは、これから来るイエスの蘇りのことをすごく表しているなと思うし、そして神様の力がよくよく表されている箇所だと思います。


このラザロのストーリーの中で、イエスはこの兄弟 3人とも・・・ マルタもマリアもそしてラザロもすごく愛していたということが分かります。


神様だからもちろん誰でも愛していますが、この時というのは、イエスは肉体を持っていて、実際に人々と関わりをしていたから、ここで愛しているというのは、すごく関わりを持っていて、コミュニケーションもとっていて、 連絡もし合っていて・・・そんな風に関係性が密で、深かったんだろうなと思います。


この聖書箇所では、ラザロのことを「あなたが心にかけているラザロ」という風に表現されていますが、他の訳では、「あなたの愛しているラザロ」がとかそのように表現されています。 とにかく、ラザロは、イエスにとって特別だったということはこれから起きることを考えても間違いないです。


そしてイエスにとって、特別なラザロを用いたんだなということがはっきり分かります。


人間的に考えるなら、自分にとって愛してやまないある人が病気になり、しかも危篤状態、もう明日にも死ぬかもしれないという瀕死で、なおかつ、自分はものすごい力を持った医者で、手を当てること一つで、すぐにその人を治すことができるという状況の時には、自分が心から愛している人間が苦しんでいることを知った瞬間、一目散に飛んでいく・・・そんな風に考えてしまいます。


人間的に考えるなら、たとえ自分が医者でなくても、自分にとって愛してやまない人が、明日死ぬかもしれないという状況を聞いたら、一目散に新幹線にでも飛び乗って、そこへ向かっていく・・・ そんな慌ただしさを想像します。


自分にとって、心の底から大切な人だから、自分にとって心の底から大切な人がそのような状態になった時には、全ての物事・・・今日やろうとしていたこと、明日やること、そんなものは全て後回しにして、一瞬で凄まじいスピードで身支度をして、家を飛び出していく・・・そんなことは簡単に想像できます。


イエスは、ラザロのことを深く深く愛していた。でも神様は人間的に考えるのではなくて、「神様的」に考えてるんだなっていうのが、この聖書箇所からすごくよく伝わってきます。


神様って、慌ただしくないんだな・・・バタバタしてないんだな・・・パニックにならないんだな・・・ということが、すごくよく伝わってきます。


とっても愛していたのに、この「のに」という表現自体も、多分すごく人間的で、おかしいのだろうなと思いますが、なぜか2日間留まって、なかなか腰を上げようとしなかった・・・ ここに「神様的な物事の進め方」というものが隠れているな気がします。


神様というのは、時を支配しておられる方です。そして私たちにとって、最善な時に、最善なことを起こそうとされている方です。


神様の時を信じるというのは、時に忍耐が必要だと思います。待つということがとても大切になってくることがよくあります。


21世紀は凄まじいほどに、スピードの時代です。今私が書いているブログもこの後に投稿ボタンを押すと、1秒でネット上に上がります。


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そんなことを考えると、この2日間待つというのが、すごく大きな意味をしているなという風に感じます。


この後に続く聖書箇所から、神様がどうして2日間待ったのかということがはっきり分かってきます。


今は、この神様はなぜか2日間留まったということをしっかり心に留めて、神様の時間軸というもの、神様の物事の捉え方というものがどれほど自分と違うかを受け入れたいと思います。