耐えるという言葉は、
私にとって、とても重苦しく、
苦痛を伴うイメージが強くありました。
今でもあります。
神様に出会って、
聖書に出会ってから、
何度もこの「耐える」や「忍耐」という言葉を、
よく目にしました。
あまりに聖書では日常的に書いてあるので、
次第に、忍耐は、私が思っていたような重苦しく、辛いものとも限らないと思うようになりました。
今自分の置かれている状況は、一種の忍耐の中にいるとような感じがします。
何か不透明で、はっきりしないものの中に生きているという感じです。
夫の進路のことや、自分のこれからのこと、ライフステージのことを考える時、色々な不透明さがあります。
人生を通して、完全に全てがはっきりする時は、
イエスと再び再会するときまで、来ないのかもしれませんが、それでも人生の中には波があって、
耐えるときと進むとき・・・そんなシーズンがあるように思えます。
ヘブル人への手紙10章36節にこの言葉があります。
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
生きるために必要なのは、水と食物であるように、
神様の約束を手に入れるのに必要なのは、忍耐であると言っておられるような言葉です。
確かに、忍耐なしには、どこへも行けない、
神様が止まれというとき、止まり、
進めというときに、進む
忍耐がなくては、導きに従うこともできない、忍耐がなくては、神様と共に歩む行動はできないなと思います。
また同じ章の39節に、これは章の最後の節になりますが、
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
とあります。
信仰というのは、目に見えないものを確信する、信じるということです。
それは、恐れとは対極にあるような気がします。
恐れと共に忍耐をするなど、地獄です。
そうではなく、信仰と共に忍耐する、
いのちを保つために忍耐すると感じます。
恐れから、破滅に向かうのではなく、
主を信じて、希望に生きるものでありたいと、
強く願います。