自分には、完璧主義のところがあり、
聖書に書いていることで、「できていない」と思った瞬間に、
「私はダメだ」と思うことがあります。
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でも、不思議なことは、もし、今書いたことを、
他人が言ったとしたら、
「何言っているの。誰だって完璧じゃない。
みんな間違いを犯すの。そんなことで自分を絶対に責めなくていいんだよ。
」
というと思います。
ただ、人にはこう言いながら、自分にはめちゃくちゃ厳しいんです。
この2面性というのは一体何なのかと思います。
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ある人は、自分に厳しい人は、人に優しくなれないと言います。
自分に優しい人は、人にも優しい、
自分に厳しい人は、人にも厳しい
と言います。
そういう言葉を聞くと、あ、私は「人にも厳しいんだ」とか思ってしまって、
ただでさえ自分に厳しいのに、人にも厳しい「最悪な自分」なんだとか、
調子によっては、どんどんそうやって自責を招くような思考をしてしまうこともあります。
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なんなんでしょうね。
第1コリント6:19にこの言葉があります。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
こういうパウロの強いメッセージを、調子がいい時は、とても励まされるのに、
調子がよくないと、私は時に自分が責められているかのように読んでしまうことがあるんです。
その裏には、冒頭に書いた通り、私の中にある「完璧主義」という考えに触れてしまうからだともいます。
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自分の中で「完璧」でなくてはいけないという思考がどこからまだ居座っていて、完全に明け渡せていないなと感じます。
完璧主義は偶像礼拝です。
主にあって、完全なる不完璧である人間が、完璧主義を持つことなど、本当に愚かだと「頭」で理解しつつ、
私の「心」の中でまだこの考えが居座っていると感じます。
ということで、私の課題は、完璧主義を手放していくことです。
だから、今こう祈ります。
「神様、私の中に完璧主義が居座っています。
そしてこの考え方は、私の心を頑なにし、聖書の言葉に対しても、どこか心を閉ざしてしまうような、
柔軟性を失ってしまっています。
この考え方が居座ることで、絶えず、自分に批判的にあってしまうことがあります。
完璧主義はゴミです。
私には必要ありません。
なぜなら、あなたが完璧であり、完全であり、私はあなたと共に生きていく人生を選んでいきたいからです。
自分の力で、何もかも全てしようなんて思いません。
そうではなくて、主の力によって、強められ、生かされ、成長していきたいんです。
だから、この完璧主義を手放します。
手放しますと言っても、手放せない自分がいます。
だから、助けてください。
このおかしな主義を完全に闇に葬ることができるように。
二度と私を支配しないように。
ただ不完全な自分をもっと愛して、大切にして、神様から愛されている自分を、
あなたが愛してくれているように、愛することができるように助けてください!
イエス様の素晴らしいお名前でお祈りします。
アーメン」
今日も素晴らしい1日になりますように。