ヘブル人への手紙1:3

 

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

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イエスがどれほど偉大で、どれほど力があり、そして、神様ご自身であることについては聖書の至る所に書かれています。ただ、このヘブルの「神の本質の完全な現れ」というのはとても興味深いと思いました。時に、まさに神ががかっている人格の現れの方に出会うことがあります。前にもこのことについて書きました。どれほど人の目に優れた人であっても、聖書が言う通り、私たちすべて、義人ではない、つまり、神の目から見たときに、誰もが罪人であるこの世に住んでいるなかで、イエスについては、「完全な」というとても強い言葉が使われている・・・本当に改めて、イエスが神様以外の何者でもないということを思い起こされます。

 

この聖書箇所はヘブル人への手紙1章の初めの方なのですが、この1章で、いかにイエスが素晴らしい方かを書いた後に、2章の冒頭で、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」と続きます。神様の素晴らしさがわかったなら、そんな素晴らしい神様に信頼して生きていけるのだから、ちゃんとその方を中心として生きていきなさいと、そして、私たちが頼るその方がどれほどの方であるかをちゃんと前の章で説明してくれている気がします。

 

神様がいかに素晴らしい方であるかということは、本当に絶えず知るべき必要があることだと思うんです。「ああ、もう聞いた、知っている」の態度ではダメな気がして・・・というのも、やはりこの世は流されやすいからです。嘘が溢れています。騙しが溢れています。神様から引き離そうとする力が溢れています。

 

だから、私はいつもこう思っています。基本的に、ぼーっとしていたら、この世に流されると。神様の国は、この世にどっしりと存在しているものではなく、むしろ、必死になって勝ち取っていかないといけないものだと思います。まるで流れるプールを逆に進むかのような抵抗を時に受けることもあると思います。だから、私は自分を信頼しません。自分を信頼したら、間違いなく気づけばぼーっとして、そして世に流されます。自分がどれほど流されやすい人間かというのは自分が一番よくわかっています。

 

だから、今日もまるで一本の木にしがみつくかのように、この世の流れの中で、神様の言葉にしがみつきます。神様に祈り、生きていきます。それは窮屈な生き方ではありません。頑張る生き方でもありません。むしろ、自分を明け渡して、自分より大きな力に委ねる生き方、自分より知恵のある方に道を示してもらう生き方です。自分は弱いけれど、主は強い、その主に信頼していきます。