マルコ10章32節〜45節
32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。
33 「さあ、これから、
34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、
35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、
36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、
38 しかし、イエスは彼らに言われた。「
39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「
40 しかし、わたしの右と左にすわることは、
41 十人の者がこのことを聞くと、
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「
43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。
44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
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この箇所は聖書がいうリーダーシップについて明確に書かれている箇所だと思います。
偉くなりたいと思うなら、仕えるものになりなさいというのは、肉の私はそう簡単にすんなり受け入れられるものではなかったです。
言葉で理解しても腑に落ちていないという期間がかなりの年月あったと思います。
私はそもそも偉くなりたいのかといえば、偉くなりたいという欲求は私の本能的なもので、確かに存在していると思います。
人の上に立つ存在、人のリーダーである存在でありたいと思います。仕事で昇格したら神様に感謝して大喜びするのだから、やっぱり私は上になりたいといつも思ってるのだと思います。
以前、実はこの私の上昇思考を否定しようとしたことがありました。それは、私の思うスピードで自分が上昇していないと感じた時に、自分の持っている理想像が自分を苦しめたからです。
私は何もかも自分の思い通りになることに満足していましたから、思い通りにならないとすぐにイライラしていました。
とっても不器用な生き方だったと思います。
神様は偉くなりたいのであれば、仕えるものでありなさいといいます。つまり、謙虚であれと語られている気がします。
自分が自分がと自分を主張する生き方は、その真逆であり、神の国では評価されないのだと心得たいです。
神様を第一にする時に、はじめて謙虚になれる気がします。神様のことを抜きにすると、どうしても自分を愛することができず、無価値に思え、その痛みから逃げるために人からの評価とか、自分が偉くなろうとすることで何とか自分の価値を保持しようとしてしまうのかなと思います。
でも神様と共にいるなら、自分が自分をどう思おうが、もう十分過ぎるほどにたっぷりと愛してくれている神様がいるので、焦って、心配になって自分を主張しなくても、神様の愛の安心感の中に生きられるんです。
神様の愛の中で、仕えるものでありたい、そして、神様の御用のために用いられるものでありたいと思います。