クリスチャンって、
神様がすごい!って経験をシェアするのに、
やたらと自分に起こったすごいことをアピールする人がいる。
神様がこんなに祝福してくれた。
こんな奇跡が起きた。
祈りが答えられたってね。
それ自体はハレルヤ!だし、
本当に神様に感謝したいこと。
でも、毎回、毎回、自分の成功アピールをするのって、
ちょっとどうなの?って思う。
もし、教会に集まるひとりひとりが、
みんな、成功アピールしていたらどうよ。
少なくても、これから求道していこうかと思っている
ノンクリスチャンにはどう見える?
もしかしたら人生でめちゃくちゃ絶望を経験したかもしれない。
ひどい失意の中にいるかもしれない。
でもわずかな光を求めて、門を叩いてくれた
ノンクリスチャンはどう感じるんだろう。
「この集団はちょっと無理」って、思ってしまうかもしれない。
もしくは自分の日常で、いいことが起きてないか必死で探すような窮屈さを
感じさせてしまうかもしれない。
それって本当残念だよね。
教会が、正直になんでも言える場所どころか、
なんだか背伸びをしないといけないようなプレッシャーを感じる場所に
なってしまったら、教会として失敗している。
何だろう。
やっぱり聖書が言うように、誇るなら弱さを誇れだよね。
100万円当たって、神様から与えられた!って人に言うのもいいけれど、
個人的には、自分の親が殺されたのに、犯人を赦せたって聞くほうが、
よっぽど神様すごい!ってなる。
すごく極端な例だけど。
だって、100万円って、別にノンクリスチャンでも当たるじゃん。
でも、ものすごく大きい憎悪や憤りを持っていたのに、
それを赦せたとか、平安を見つけられたとか・・・
そういうのって、もうイエスにつながっていない人はありえないと思うから。
本当の意味で。
だから、自分がいかに弱い存在で、
普通だったら、ハチャメチャ、ボロボロになってもおかしくないのに、
イエスの導きでこうなったって証を聞くと、
本当に励まされる。
だから、クリスチャンは飾るのをよそう。
自分はボロボロですって証なしに、
成功アピールをしても、それあんまり意味ないどころか、
真理への道をなぜか、一部のすごい人が受け取れるような
イメージに狭めてしまう。
それ、全然真理じゃないよね。
だから、堂々、自分がバカで、あほで、
失敗もして、イエスなしには何者でもないことを、
アピールしたい。
感謝!