大変な状況にある時、人に優しくできないことがある。
よく、「まずは自分が幸せにならないと、人に親切をすることができない。」とか言う。
最近はやりの、自分探しだとか、自分の夢を実現するための自己啓発系は、まずは自分の理想を実現しよう!そうしたら、周りも喜ぶし、人にだっていいことができるよ的な論調が多い気がする。
嬉しい時、幸せな時、なんだかウキウキして、普段ならしないことをしたり、
心が弾んで、世の中が全て薔薇色に見えたり、
そんな気持ちでいれば、多少いじわるされても、嫌なことがあっても、さらっと流せたりする。人間なら誰しもそういう面はどこかしらにある。
でも、だからこそ、その反動で、自分が大変な状況にある時、人に優しくできなくなる。
この態度が日常的になってしまうと、
感情と行動はとってもシンプルで、
自分が➖(マイナス)なら、相手にも➖。
自分が➕(プラス)なら、相手にも➕になれるという、
なんとも"自己中心の極み”みたいな状態が浮かび上がる。
こういうこと書くと、それは感情に左右されすぎなんだよとか、感情のコントロールが必要だとか言う人もいる。
でも、正直、そんな甘い言葉は、正常時には通用しても、
本当に悲惨な状況下であったり、心がつぶれてしまいそうなほど辛い状況にある人にとっては、全くガラクタ同然に意味を持たない言葉だ。
そして、それに意味を持たせられないことを更に批判するような言動をするなら、もはや、その人は一度地獄の谷を数日間歩いてみるといいと思うくらいだ。
大変な状況にあって、人に優しくできない時ということは、人間なら誰しもある。
そして、悩ませるのは、それを心の底では許容していないから。
特に家族に対して。
もしくは友人に対して。
職場の人に対して。
本当はこんな態度も、こんな言い方もしたくない。
でも、溢れる思いが言葉になり、行動になり、怒り、悲しみ、嘆き、人に優しくするなんて余裕は微塵もなくなってしまう。
私たちの神様は、なんとすばらしいお方でしょう。神様は主イエス・キリストの父であり、あらゆる慈愛の源です。そして、私たちが苦しみや困難にあえいでいる時、慰めと励ましを与えてくださるお方です。それは、苦しみの中にあって慰めと励ましを必要としている人々に、私たちも、神から受ける助けと慰めを与えることができるためです。
第2コリント1:3−4
人間の本来持っている性質では、どうしても、
大変な状況にある時、人に優しくできない。
そして、それを可能にしてくれるのが、神様なんだなって、この言葉からはっきりと伝わって来る。
苦しみの中にあって慰めと励ましを必要としている人々に、助けと慰めを与えることができること。
それは、私たちの感情や状況によるものではなくなる。
そこにまだ依存していたら、絶対に見えない世界。
まったく違う次元で、神様から愛されているという事実が、
いかなる状況にあっても、私たちをキリストに似た者として働かせてくれる原動力になる。
委ねて。
感謝。
