十字架刑が最高の刑罰だった時代に、公の場で人を磔にするのは、人々に罪の重さをわからさせ、同じようなことをしないようにという意味があったと、今日牧師から聞きました。
人々に罪をわからせること。
イエスが十字架でかかったことを知ることで、私も自分の罪が明らかになり、今までだったらスルーしていた暗闇も光に照らされるようになりました。
牧師は人は二つの罠に陥ると話してくれました。
一つ目が、自分に罪があることにも気づかないこと。
二つ目が、罪に気づいたとしても、言い訳をしたり正当化したり、むしろ指摘されたことに怒ったり。
本当だな・・・と思います。
聖書を読むことによって、私は、「うんうん、わかるわかる。本当にこれは罪だよね、やっぱりよくないよね!」って思いながら読んでいる時。
まるで自分は神様と同じ側に立てているかのような錯覚で、
聖書の中に出てくる"悪い人"を,現実社会の"悪い人”と照らし合わせている時。
こういう時って、無意識に上から目線になっていて、まさに
「自分に罪があることにも気づかない」一つ目の罠に陥っているよう。
自分がその"悪い人”がしていることを、
別の場面ではいとも簡単にしていることを棚に上げて聖書を読んでしまうと、
せっかく神様が聖書を通じて私に語ろうとしてくれていること、気づかさようとしていることを簡単にスルーしてしまう。
聖書を読むときに、どれほど「謙虚」な気持ちでいるか、
自分の「思い込み」やその日の「気分」で読まないようにするかって、
すごく大切です。
そして二つ目の罠・・・これもやっている。
聖書を通じて、祈りを通じて、教会を通じて、気づいたことも、
その時は、自分の罪にストレートに光を当てたのに、
しばらく経って、同じような罪をしてしまうと、
なぜか言い訳やら正当化やらしている。
一つめの罠と違って、今回はもう自分では、「罪」ってわかっているので、
「罪」にちゃんと気づいている。
だからこそ、尚更自分を良く見せようとか、自分は善いんだと思おうとして、そうやって言い訳しているんだろうなと思います。
これも、神様からの、聖霊からの働きを邪魔してしまっている証拠。
小さくなって、謙虚になって、そして、ちゃんと罪は罪って告白して、素直に悔い改めてっていうこと・・・これを日々していくことが本当に大切。
この世にいる限り、ちょっとしたことで、すぐ古い性質に戻ってしまうからこそ、
いつでも神様とつながり、神様に謝って、赦してもらい、また自分を律して、生きていくことの繰り返しがクリスチャンとしての歩みに欠かせないなと感じます。
それでも、素晴らしい日曜日を!
委ねて。
感謝。