主を探し求め、常にそのご意志に従う人は幸いです。そのような人は、悪と妥協することなく、主の道をひたすら歩みます。
詩篇 119:2-3
私はあなたに従います。どうか私を見捨てず、私が二度と罪の中に落ち込まないように導いてください。
詩篇 119:8
服従をテーマに聖書を読むと、本当にたくさんの「従う」という言葉が、聖書にはある。
今回はこの中から2つ。
神様を知って、救われることと、
神様に救われて、従うことは、別。
というのも、神様に救われたからといって、
私たちが元々持っていた「古い肉の働き」は決して消え去るわけじゃないから。
この世に、肉体を持って、留まっている間は、
必死で、「神様を選択」していかないと、
必死で、「神様を求めて」いかないと、
簡単に、流されてしまう。
もし、既に救われているのに、
神様を身近に感じられなかったり、
神様の働きが見えなかったり、
神様からのビジョンが示されないと思っているのなら、
まさに、この「従う」ということがカギになってくるはず。
前もブログで書いた通り、私は、長く「救われたまま」に留まっていた。
今思うと、クリスチャンなのに、全くノンクリスチャンと同じ考え方をして、
この世的幸福を求めていたと思う。
キリストのために批判されることを避け、
キリストのために衝突することを恐れていた。
本当に、毎日日曜日に教会に行って、何を聞いていたんだろう?と思うほどに。
でも、今は何を聞いていたのかが、分かる。
私は自分の「メリット」になることを、
ただ自分の「思い通り」の人生を歩むために、
聖書の言葉を「活用」していたこと。
誤解を恐れずに言うなら、聖書を自己啓発的な本として見ていた。
***
キリストに救われて、キリストに従い始めてから、
人生は本当に大きく変わった。
何が違うの?と言われれば、
救いに留まっている時には絶対に感じられなかった、
「絶対的な安心」と「絶対的な希望」が今はある。
この世には「絶対」なんてことはないと思う。
完璧がないように、不安がない人はいないし、心配がない人もいない。
「絶対」はいつも神様から与えられるもので、
神様の力なしには、いつも何かに急かされ、苛立ち、不安になり、
言いたくもないことを言い、やりたくもないことをしてしまい、
頭でわかっていても、できない・・・という状態になってしまう。
でも、「キリストに従い始めたら」、
本当に「絶対的な安心」と「絶対的な希望」が心に宿る。
ここで強調したいことが、まさに「キリストに従い始めたら」という箇所。
「キリストを知ったら」でも、「洗礼を受けたら」でも、「教会に通えば」でも、
「聖書を読めば」でも、「祈りをすれば」でもない。
「キリストに従い始めたら」。
それほど、「従う」ということが、ものすごい力を持つ。
じゃあ、どうやったら従えるのか?
それが、まさに今回の聖書箇所にあるように思う。
1.神様をいつも探し求めること
→
「聖書を読むこと」
2.神様にいつも従うこと
→
「聖書から語られたことを行動に移すこと」
3.神様にいつも祈ること
→
「再び古い自分に戻らないように頼ること」
今は、もう旧約の時代じゃないんだから、
必要なことはすべて聖書に書かれてる。
神様の言葉が聞き取れないなんて、右往左往することもない。
あなたが預言者である必要はもうないんだから。
だからこそ、聖書を読んで、
読んで語られたことを行動に移して、
そして、いつも神様との祈りの中で、濃い関係を持っていくこと。
この過程の中で、少しずつ「従う」ことができ始める。
そして、神様は準備が整った人間から少しずつ神様の御用のために、
用い始める。
確実に。神様のタイミングで。
従おう。
そのための、小さな一歩を今日踏み出そう。
委ねて。
感謝。
