イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
マタイ14:31
信仰であれ、信念であれ、
人は何かを信じて生きている。
私の場合は、キリストであり、
人によっては、仏教であり、人によっては無神論であり、人によっては自分自身であり・・・
信仰がキリストの人は、![]()
キリストが言うこと、なすことを信じ、
信仰が仏教の人は、![]()
仏が言うこと、なすことを信じ、
信仰が無神論の人は、![]()
神様はいない、この世は刹那で、人間という生物として生まれ、生きて、散っていくだけということを信じ、
信仰が自分自身の人は、![]()
自分が言うこと、考えること、なすことを信じる・・・
だから、
何も信じていない人はこの世にはいないはず。
結局、何かに自分自身を反映させて生きている。
そして、信仰が何であろうと、
信じているものに没頭するってこと、すごく大切。
だって、没頭しないと、
結局いつまでも想いと行いが一致していないってことだから。
没頭しないと、
結局いつまでも、自分の信念が何であり、どうであったのかがわからないから。
革命を起こした人がいる。
でも、後から、立場を変えている人もいる。
もちろん、貫く人もいる。
どちらであったとしても、自分の信念・想いに極限まで本気になったからこそ、
「これまでの考えは違う」
もしくは「この考えをもっと広げる」
と
立場を明確にできた。
中途半端は結局、何も生み出さない。
白か黒か、はっきりできないことが世の中沢山ある中で、
それでも、
自分の想いに、ちゃんと輪郭をつけるっていうこと。
なぜなら、そうしない限り、
いつまでもその想いに力が湧いてこないから。
ふわふわした、
何となくの想いのままだから。
この聖書箇所の背景もそう。
ほとんどの人が、このペテロのようではないのかなと思う。
少なくとも私は間違いなくそう。
このイエスの言葉の背景は、ペテロが、船から出て、水の上を歩こうとしたんだど、
強風が吹いて、怖くなって・・・
そして、溺れそうになってしまう。
気がはっている時には、何でもできても、
気が抜けるとさっきのあれは何だったの?っていうくらい、
途端にできなくなることってある。
そして、人生において、結局年がら年中、気が抜けたままになっていることもある。
そんな人に対する、イエスの叱責。![]()
信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか?
なぜと聞いているけれど、
疑ったことが問題じゃなくて、信仰が薄いということが問題。
信仰が薄いから、疑うわけだし、
信仰が薄いから、不安になる。
風が吹いて、![]()
波が来たら、![]()
自分の気持ちが揺らぎ始める・・・
これを神様は信仰が薄いという。
言い換えれば信念が薄いということ。
想いが弱いってこと。
もっと言うなら、
大した覚悟じゃないなーってこと。![]()
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人はよく、奇跡を求めるし、
成功を求める。
そして自分の信念の成就を求め、
正義を求める。
だけど、これらは全部、その想いがガッチガチに強くないと、起きてこない。![]()
何かに夢中になって、
とりつかれたように本気になる。
そういう信念や信仰の濃さが、
ありえない現実へ導いてくれるとおもう。
人が水の上を歩くっていうありえない現実を作るために、
必要な信仰の強度は、
現代、人がそれぞれ思っているありえない現実を作るために、
必要な想いの強度であるはず。
委ねよう。
感謝。