あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37:5
このブログは、文末に「委ねよう。感謝。」のテーマでずっと書いているけれど、
それの出処の箇所。
自分の道を主に委ねるということ。
別の訳では、「自分のしようとすることをみな、主にゆだねなさい。」
ともある。
この委ねるって言葉、たまに誤解してしまう。![]()
この世の「委ねる」の意味って、「任せる」って意味。
だから、自分は関与しない・・・
そこから言葉がどんどん派生して、
自分ではやらないとか、
努力しないとか、
なりゆきに任せるとか、
何もしない・・・とか。
そんな意味にもなってしがち。![]()
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相手が人ならね。![]()
でも、相手が神様だと、違う。![]()
相手が人だと、委ねちゃったら、自分の手から、
そのものなり、ことなり、全部自分から「離れていく」。
相手が神様だと、委ねちゃったら、神様のやり方で、
そのものなり、ことなり、が整えられて、自分の歩みがつくられていく。
ということ。
これを導きっていう人もいるよね。
さて、委ねるって、普通に考えて、
超怖いことだと思う。![]()
例えば、子育てをしている母親が、
近所のおばさんに2週間子育てを委ねる・・・
平気な顔してできる人少ないんじゃないかな。
それくらい、人って、
自分がコントロールできないことを恐れる生き物。
でも、今回の委ねる先は、神様
。
神様に委ねることができるかは、
どれくらい神様のことを知っているかどうかだと思う![]()
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。
近所のおばさんに2週間子供を預けることは難しくても、
自分の母親なら、躊躇なく預けられる人もいるはず。
その違いって結局どれくらい知っているか?じゃない。
信頼という名の。。。
神様がどれほど、愛に溢れていて、
寛大で、恵み深くて、忍耐強くて、力を持っているか、
わかればわかるほど、
委ねたくなる。
そして、それが次の段階に行くと、
もはや自分で自分の人生切り開くよりも、
神様に運転席に座ってもらって、
神様に自分の人生リードしてもらいたくなる。
そうやってどんどん委ねていく。
でもね、これ依存とは全然違うの。
神様に依存するわけじゃないの。
神様が運転席で運転してくれるからって、
自分は助手席でふんぞり返っててもいいって話じゃないの。
そういうことしていると、
クリスチャンって偽善って言われちゃうんだよね・・・![]()
そうじゃなくて、あくまで、神様はドライブはしてくれても、
そこで起こるあらゆることを、
降りて、対処するのは、私たちの仕事。
だから、助手席から、降りなきゃいけない。
そして、また車に乗る。
家の掃除をするために助手席から降りる。
そしてまた車に戻る。
困った人を助けるために助手席から降りる。
そしてまた車に戻る。
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委ねるってことは、
神様にここに行けって言われたら、行き、
これをしろって言われたら、すること。
それが本当の意味で委ねる。
あっ、でもまずこれを先にしなくちゃとか、
あっ、でも今金欠で、お金を稼いでからにしようとか、
そういう自分の都合を優先させていると、
いつまで経っても委ねられないし、
委ねられないと、神様が人の人生を通してしてほしいことが、
どんどん遅れていく。
結局、死んじゃって時間切れ
になっちゃう人もいる。![]()
本当に。
いつまでも運転席のハンドル手離さない人もいる。![]()
近道知っていると思い込んじゃってね。
とにかく、とにかく、
委ねようって言葉、
生半可な意味じゃない。
サボりでもないし、
楽をすることでもない。
委ねるって本当にすごいこと。![]()
神様の素晴らしさ、知っているから、私は委ねたいって常に思う。
でも、失敗して、委ね切れない私がいるのも知っている。
そうやってこの世と戦いながら生きている。
でも、でも、やっぱり委ねよう。
今日の言葉にあるように、神様が成し遂げてくれるから。
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そして、大切なこと。![]()
もし、委ねる前に神様が自分に何を望んでいるか事前に知りたい、
そうすればその内容を実行しようかどうか決められると思うかもしれない。
私もすごく思った。
でも神様ってそういう風には働かない。
この世のやり方では働かない![]()
神様は、
神様の意志が何であろうと従おうと決めた人のみ、
その意志を示してくれる。
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委ねよう。
感謝。