2012年、ホイットニー・ヒューストンのあまりに早い最期に衝撃を受けた記憶は私の中にまだ新しい。
しかし私は彼女のことをどれだけ知っていたのだろうと、本編を観ながら私は何度も自分に問い掛けた。

本編はホイットニーに関係する周囲の人物達によるインタビューにより展開されていく。
しかしその輪舞曲は回れば回る程に過酷なホイットニーの生涯を明かし、我々は輪の中央で息も絶えだえなホイットニー自身を目にすることとなる。
実際、私はあまりに哀く、それでいて抜け道の無いホイットニーの置かれた環境に、途中息苦しさを覚えた程。

ホイットニーのパフォーマンスがどれだけ奇跡的な輝きに満ちていたかは今更語る必要もないことだが、聴く者の心を時に鷲掴みにし、時に深淵にまで触れるその歌声のエッセンスは、幾重にも訪れる絶望を生きた彼女だからこそ得ることのできた力なのかもしれない。
そして私は彼女が一歌手としてだけではなく、差別の残る社会の中で大きな偉業を遂げた希望の光だったということも、この映画を通して知ることとなった。

一つ前の投稿でオペラ歌手マリア・カラスについて筆を取ったが、時代の流れとしてカラスが生きた時代よりもホイットニーの生きた時代はより情報化も進み、その輪舞曲は物凄い速さで回っていた違いはあれど、カラスとホイットニー、二人の生涯に私はいくつもの類似点を覚えるばかり。
そして両者とも「二人の私がいる」と口にしては、やはりそれぞれ御し難いもう一人の自分との葛藤に苦悩する共通点で結ばれている。

眩いばかりの玉座へ君臨しながらも、欲し続けた愛情の欠如を埋めることが叶わず、求める程に彼女達をそこから遠ざけていっては、悲しい終幕の引き金にまで姿を変えさせる運命の残酷さ。

劇場を後にする背中へ、エンドロールの歌声がこんなにも甘く、そしてどこまでも苦みを伴って響く映画もそうはない。