昨日、大分からの帰り、速見インター近くの山や木は雪が溶け切れずにきれいな白銀色でした。心まで和やかになり、なんとなくウキウキ弾んだ気持ちで帰宅しました。 雪景色をとらえた感動の記憶は、私の昨日の動きの中にあり、今はパソコンイ向かって、少し前の過去の私のとして表現しています。
今年の冬は雪景色がたくさん見られますね。今朝も、昨夜雨が雪に変わったのでしょう。近くの民家の屋根や庭のところどころに白い雪が残っています。 今、私が表現したのは、朝目覚めてから、私が認識した私の意識(思い)です。昨日からの、いえ、もっと以前の、生まれてから物心ついてからの私はこうして、自分の視覚や聴覚などの五感がとらえたものに意味を与えて、それを現実だと思い込んできたのでしょうか。?
同じように朝早く出勤した主人は、この雪景色に感動をいだいて出勤したでしょうか?それは主人しかわからない事なのですが、どのように感じていようとも、それも主人が現に生きている現実のことになるのでしょう。
このように考えていたら、事実というものはどこにもなく、自分が心とめた認識の仕方が現実となるということなのでしょうか。
このことは、カウンセリングの面談場面で、お話を聴かせていただくとき、その方にはそのように見えている現実があるということにつながります。そのことが理解されていないとこちらの現実を当てはめて、否定したり、助言したり、指示したりという共感的な態度とはかけ離れた態度で接してしまうことになります。 「耳で聞くんじゃないよ。心で聴くんだよ。心で聴くんじゃないよ。気で聴くんだよ!耳で聞けば耳に止まり、心で聴けば府に止まる。気とは虚。むなしく待っている。」という聴き方の言葉があります。
私の気づきを言葉にしたいと思います。言葉にすると伝えたい本質が伝わらないかも知れませんが・・とにかく言葉にしてみます。
人が思いを話す時、言葉にするものは、今、現実ととらえている認識(思い)であり、それは連続されている過去から現在や未来にまでつながる認識(思い)の状態といえるかもしれません。その中に、人の動きやものの動きが語られます。
私の知っている限りのイメージで、映像を浮かべながら理解しようとします。そのときの私は相手の綴られている言葉を聞いているだけのようです。でも何か自分の言葉として聞こえてくるものがあるのです。それを私が聞いているというようなものでしょうか。
注意しないといけないことがあります。それは事柄(事実として語られている人の動き、物の動きなど体験)と気持ち感情の区別です。
「耳で聞く」とは聞きながら違うことを考えているということでしょうか。「心で聴く府」とは、言葉のことであり、事柄(体験)のことではないかと感じています。
事柄を聞くと同じ体験があれば、わかったような気持ちになります。体験が違うと、少しでも援助したいという気持ちが働くので助言したくなるのではないかと思います。 なかなか聞いているつもりになっていても、自分の言葉を聞いているだけのようです。
私は、浮かんできた言葉や思いを言葉にして応答するのですが、相手のそれを話したい、そのことを聴いてもらいたいと思って話してくれる根底にある気持ちの所を一番に汲み取るように心がけています。
事柄や体験はそのように感じてきたんだと理解します。絶対肯定的に聴いていくことに心がけています。その方がそのように認識してきた世界だと思うからです。
次に「気で聴くんだよ。」とあるのですが、言葉にすれば、「その空間を共有するとか、聴こえてくるんだ」とか、専門書にはあるのですが、これはとても難しいと感じています。今ここに至って感じていることは、自分の認識や概念観念をはずして、人間的な世界に縛られないで、宇宙や自然と一体となる、あるがままの境地を学んでいくことに通じているのではないかということです。
まだまだ十分とはいえない私のカウンセリングの学びはこれからも続きます。私の認識(意識や思い)のあり方を損得や評価をはずし、調和や愛(情ではなく)につながるように取り組んでいきたいとあらためて感じています。




