「奥の細道」の旅で、芭蕉は仙台に入り、しばらく滞在した。そのあと、多賀城跡、塩竃神社、松島へ向かう。
「名取川を渡りて仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿を求めて四五日逗留す」(奥の細道)。
東北地方のなかで一番大きな都市。「杜の都・仙台」はどんな街なのだろうか。
仙台に着いた夕方、早速、街の目抜き通りである一番町の商店街を歩き、青葉通りにも立ってみた。「ぷらんどーむ一番町」は、大阪にも東京にもない綺羅のある美しいアーケード街で、青葉通りは期待どおりケヤキの並木道が続く大きな通りで、これが「杜の都」なのだと思った。
多賀城跡を見学した旅の2日目の午後には、仙台城にのぼり、また、大崎八幡宮に参拝した。
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<伊達政宗がつくった……青葉城>
タクシーで仙台城の本丸跡にのぼった。多賀城見学のあとで疲れていたからタクシーに乗ったが、、タクシーにしてよかった。こんな高い所に歩いてはあがれない。
仙台城。雅称で青葉城。その本丸跡は、見晴らしは良いが何もなかった。ただ、騎乗の伊達政宗が迎えてくれた。
1882(明治15)年、二の丸で火災が発生し、城のほとんどの建物が焼失した。
遺構となった大手門、脇櫓、巽門は国宝になったが、1945年のB29爆撃機123機による空襲のため、市内の中心部は廃墟と化した。青葉城の数少ない遺構も、そして「杜の都」と言われた江戸時代以来の屋敷林も焼失した。
(伊達政宗騎馬像)
「千代」と呼ばれていた地を、「仙台」と改めたのは伊達政宗である。
「この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしか思えない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した」(『街道をゆく26』)。
政宗が仙台城(青葉城)の建設に取り掛かったのは、関ヶ原の戦いの後の1601年である。
「青葉山はその背後の広大な山地の東端にあって、突角のように市中に張り出している。その突角のふもとを広瀬川がふちどるようにして蛇行し、ときに意外な場所でこの川にぶつかる」(同)。
仙台城はその突角の上に築かれ、城の麓を広瀬川が防衛線のように蛇行しながら流れている。
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江戸時代、青葉城には本丸と二の丸と三の丸があった。
初代の政宗のとき、青葉山山頂に本丸と西の丸が築かれ、政庁や御殿が置かれた。守りにおいては堅固そのものだ。
だが、眺望はまことに良いが、毎日、ここへ上がってくる侍や出入りの商家の者たちは大変である。二代目の忠宗は、麓の広瀬川の内側に二の丸、三の丸をつくり、政庁も御殿も二の丸へ移した。広瀬川の内側の地は「川内」と呼ばれ、重臣たちの屋敷もあった。今は、その辺り一帯は東北大学川内キャンパスや青葉山公園や博物館になっている。
(仙台城本丸跡からの眺望)
城下町は伊達政宗のとき、広瀬川の対岸の、人跡稀な原野につくられた。
よって、江戸時代の仙台の範囲は、青葉山にある仙台城と、その麓で広瀬川の流れの内側の川内と、広瀬川の向こう側の城下町の3か所で構成された。
(仙台城本丸跡からの眺望)
仙台の人口は江戸時代を通じてざくっと5万人程度。その6割は武士で、武家地の面積は町の総面積の7割を超え、「武士の町」であったという。ちなみに、江戸時代の都市は、百万都市であったとされる江戸、そして、京都、大坂の3都市が群を抜いていて、10万都市が名古屋、金沢。あとに続くのが仙台等であった。
塩竃は城下町・仙台の外港として発展し、仙台との間に運河も造られたが、明治20年に仙台駅ができ鉄道が通ると、仙台駅が物流の中心となって、塩竃港は役割は終えた。
「仙台におけるいまの都市づくりの核は、仙台駅前広場のようであるらしい」。
だが、「原形としての仙台は、やはり青葉城が中心である。川としては広瀬川によりそっている」(同)。
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<桃山風建築に接したければ……大崎八幡宮>
青葉城の高台から、たまたま1台だけ居合わせたタクシーに乗って大崎八幡宮へ行った。
大崎八幡宮は、城下町の北西端、乾(イヌイ)の鎮めとして伊達政宗が造営した神社である。
(大崎八幡宮の一の鳥居をくぐる)
「『桃山様式』というのは綺羅(キラ)があり華やいでいながら、下品ではない。桃山風は豊臣秀吉の好みによって興った。
豊臣のあとをついだ徳川家康には当然好まれず、時流の人々も秀吉の好みを否定することによって家康の時代に迎合した。このためこの様式は日本史上わずか十数年でほろんでいる。絵画史では多少の余風がのこったが、建築ではのこらなかった。
ところが、仙台とその周辺に多くのこっているのである。
伊達政宗が、この地に移植したのである。空襲で焼失した仙台城大広間や、おなじく焼失した政宗の廟所の瑞宝殿、それに現存するものとしては仙台市内の大崎八幡宮、塩竃神社、松島の瑞巌寺などがあげられる。こんにち、桃山風建築に接したければ仙台へとゆけといいたいほどである」(同)。
(三の鳥居)
「参道は、街中でありながら、古い杉木立に囲まれていて、杜に近い厚みがある」(同)。
(長 床)
御長床(オンナガドコ)は素木(シラキ)造り。真ん中が拝殿・本殿への通路。西側は神楽殿で、9月の例大祭のときにはここで神楽が奉納される。東側は畳の間と物置になっている。
御長床をくぐると、正面に拝殿、本殿があった。
(拝殿)
前の、柱に白い垂れ幕の部分は、多分、臨時のもの。そのうしろの建物が拝殿で、その奥に隠れて本殿がある。
(拝殿、左側・奥に本殿)
拝殿と奥の本殿を石の間でつないで1棟とした。権現造りというらしい。国宝である。拝殿内部には、狩野派の絵師による唐獅子の障壁画、石の間の天井には53種の草花や多彩な彫刻があるそうだ。
(本殿)
「私どもは、黒うるし塗りの階段(キザハシ)をあがった。欄干の要所要所に黄金の金具がつかわれていて、配色としてうつくしい」。「なかは、……まわりが、黒い鏡のようにかがやいている。板戸がみな豪華な黒うるしなのである。欄間から天井にかけては、過剰なほどに多様な彫刻で飾られている」(『街道をゆく26』)。
要は、床とか壁が鏡のような黒漆、上部は朱や金で彩色され、多様な彫刻の装飾があって、対比の妙があるということか。
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<広瀬川流れる岸辺![]()
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パリの街並みはセーヌ川の中の島のシテ島から発展した。セーヌは街の中を流れる川である。昨年訪ねた城下町・盛岡は中津川の流れに沿って街並みがあり、北上川と合流する箇所に不来方の城跡があった。
仙台は東北第一の都市である。街並みの規模は、盛岡と大阪の中間ぐらいだろうか。しかも、杜の都と言われるように、中心を走る道路に緑の巨樹が陰を落として、落ち着きと気品があった。朝、仙台駅から、それぞれの勤め先へと歩いてゆく人たちも、地方の城下町の人のもつ穏やかさに加え、きりっとした風韻があるように感じられた。仙台駅の改札出口に並ぶ列がぴゅっと一直線なのに驚いた。たまたまだったかもしれないが、いかにも「武士の町」らしいと思った。
ただ、街の中を広瀬川が流れていない。そのことを残念に感じた。
仙台の街は、西の高台に本丸があり、その麓を広瀬川が流れ、流れの内側の「川内」に二の丸、三の丸や重臣の屋敷があった。そこは、今は東北大学や公園や博物館になっている。そして、広瀬川の向こうの野に城下町がつくられた。
だから、仙台駅から広瀬川に到る現在の中心街に、川は流れていない。広瀬川は町の中心部の西端を蛇行している。
松島遊覧、瑞巌寺参詣から仙台に帰ってきた3日目の午後遅く、広瀬川の流れを見たいと思って出かけた。広瀬川の流れを見るのにどこが良いのかわからぬまま、地下鉄東西線に乗り、「大町西公園駅」で降りて、「大橋」という橋へ向かった。
(大 橋)
立派な橋を渡って、「川内」側に出て、広瀬川沿いの小径を北へとそぞろ歩いた。
(広瀬川)
小径は自ずから青葉山公園に入り、紅葉黄葉と散り敷いた落葉がロマンチックだった。ベンチも置かれていた。
(青葉山公園)
「国際センター駅」に出た。ガラス張りの新しい駅だった。このあたりは東北大学関係の敷地で、駅のさらに北には仙台二高があり、緑の中の学究学園都市という風情があった。
(国際センター駅)
駅の中や地下鉄の中には、あちこちに留学生らしい若者と日本の学生たちが話していて、いい雰囲気だった。
広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬踊る光に 揺れていた君の瞳
季節(トキ)はめぐりて また夏がきて
あの日と同じ 流れの岸
瀬音ゆかしき 杜の都 あの人はもういない
(青葉城恋唄)
昔、この歌を聴いて、広瀬川は「杜の都」と言われる都会の中を流れる川というイメージを思い描いていた。
しかし、それは私がつくった勝手なイメージで、実際に広瀬川を見、「川内」を歩いてみて、この歌詞に歌われている広瀬川はやはりここなのだと納得した。杜の都らしく緑豊かで、若々しく、知的なところ。そこを広瀬川は流れている。
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これで、「宮城野の旅」は終わる。
仙台は、オシャレで、街並みが整っていて、感じのいい大きな街だった。盛岡も仙台も、愛すべき町である。
(仙台駅近くの風景)
この項、終わり。














