肺がんの手術は、年内に手術してほしいという私の希望が叶えられ、2023年12月26日に行われることになった。

少し前の12月20日、職場には、しばらく休みをもらうことを伝え、療養休暇に入った。

職場の院長は、「行ってらっしゃい。」と、私が戻ってこれるようにと優しく送り出してくれた。職場へは、翌年の7月から復帰したので、まるまる半年休ませてもらったことになる。


手術直前の12月23日、私は52 歳の誕生日を迎えた。その日は息子が所属する大学オーケストラの演奏会があった。

プログラムは、サン・サーンスの死の舞踏、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」であった。自分の生死を分けるような大手術を目前に、皮肉にもそんな「死」がテーマの演奏会だった。大学生とはいえ、情熱的な演奏に、とても感動した。手術に向かうためのエネルギーをもらえた気がした。親の手術の前にも気丈にしっかり演奏してくれた息子に心から拍手を送った。

12月24日、クリスマスイブであるが、家族4人揃って焼肉屋さんへ行き、チキンでなく牛肉を食べた。家族は翌日の私の入院を応援してくれて、楽しい時間を過ごせた。


手術前日、12月25日に入院し、その日は呼吸器の検査をし、肺活量などを測った。

医師から手術の説明があった。

私は年齢の標準値より、少し肺活量が多かったため、左の肺を予定通り半分以上取ったとしても、年齢の標準肺活量の80%は残せるだろうという予想であった。もし左肺を全摘した場合は60%くらいになるだろうとのことだった。


80%ならば、何とかなるのでは?と楽器をまた再開できる希望が見えた。


12月26日、朝8時半に手術室に移動し、全身麻酔で行われた。予定通りの5時間で手術が終わった。

左肺下葉、上葉(舌区)切除、リンパ節郭清、気管支形成術。

大変な手術を執刀してくれた呼吸器外科医には、大変感謝している。


目覚めた時に、まず聞いたのは、「左肺は残せましたか?」ということ。残せたことを聞いてとても安堵した。そして、まず痛かったのは、肺の傷ではなくて、左腕(肩)だった。術中ずっと左腕を上げたままだったからだ。

半日ほどはICU におり、看護師さんが頻繁に様子を見に来てくれた。氷水を飲ませてくれて、とても冷たくて美味しかったと記憶している。

部屋にレントゲンの機械が運ばれて来て、撮影されたりした。


1日ほど、声がかすれてしまい、耳鼻科の先生に診察してもらいましょうか?とも言われたくらい、しばらく声が出なかった。気管支に管が入ったからであろう。翌日からは少しずつ声が出るようになった。


歩行訓練を看護師さんに付き添ってもらってしたが、普通に歩くことができた。

私は帝王切開で2人子供を産んでいるので、お腹を切られた時の方が100倍歩くとき痛かったので、その辺は余裕だなと思った。


お正月は病院で迎えることとなり、初日の出は病院の10階のラウンジで見た。とても素晴らしい日の出だった。

2024年1月1日は、まだ記憶に新しい、能登半島の地震が起こった日だ。入院している10階フロアはゆさゆさと大きく揺れてびっくりした。ちょうど夫や息子たちが面会に訪れた時に地震が起こり、エレベーターが停電で止まり、非常電源で動いた従業員用エレベーターで家族が登って来たことを覚えている。


我が家の年末年始は義父の腎不全の入院も重なってしまい、認知症気味の義母を家で預かり、夫や息子たちに大変な思いをさせてしまった。

さらに、こんな時に限って、お正月の会食で

母がコロナに感染、義母や息子も感染し、私のお見舞いにも来れなくなってしまった。私は急いで家に帰らない方がいいのでは?とゆっくり入院生活で療養させてもらった。


肺にドレーンの管ががつながれており、血液などの量がなかなか減らず、1週間以上管をつけたままの生活で、寝返りもできず、なかなか寝られない日々が続いた。呼吸はそんなに苦しくはなかったが、話すととにかく咳が出る。母が心配して電話をくれるのだが、話すと咳が出てきて、傷に響いて痛かった。看護師さんからは、咳が出そうになったら傷のところをタオルなどで覆うといいよ。とアドバイスを受けた。

なるべく病棟を歩くなどして、体力をつけるよう努めたが、髪の毛を洗っただけで疲れはてて熱が出るということが入院中2回あった。

理学療法士の運動リハビリも始まり、体力をしばらくつけた頃、ようやく家族のコロナが収まって、予定より1週間遅れて、1月10日に退院となった。



庭のアジサイ。