私が36歳でした大きな決断。
それは実家族と縁切りです。
私を知る方は、家族命の私がなぜそうなったのか…とびっくりされることでしょう。
今考えてみると亡き父は唯一の私の理解者だったように思います。
亡き祖父母も初孫の私を何が何でも守り、居場所を与えてくれていました。
はっきり言っておきます。
私は母が大好きで、尊敬しています。
ただ母とはお互いに尊重し合う関係を築くことができませんでした。
幼い事から何かあったわけではありません。
父が亡くなってから、母娘関係が本当に共依存の関係になっていたと自覚しています。
若くして父が亡くなり、母は若くして未亡人になりました。
母を労わるあまり、私が母を守らなくては!と自分を犠牲にしてしまっていたのは誰のせいでもない私の決断です。
でもそうやって精一杯母に尽くせた、家族に尽くせた12年間は私にとって宝物だと思います。
何も後悔はしていません。
私が母を想い、大好きな父に代わって母を守らないとという想いが家族にとっては有難迷惑だったのだと今思います。
私は私で24歳で最愛の父を亡くし、一生懸命に努力して掴んだ客室乗務員の仕事を急に手放しました。
当たり前ですが、不安定だった母を目前に弟二人は就職したての子が一人、まだ大学生だった子が一人。
姉として未来ある弟たちの人生を変えるわけにはいかない。そう思いました。
そこから母と同居し三人の息子に恵まれ、母に協力してもらいながら育ててきました。
夫も快く実家族の状況を受け入れてくれて、母と夫も仲睦まじかったです。
この構図から、どうしてもすでに嫁いだ娘である私が母と他の兄弟の橋渡し役になったのは言うまでもありません。
本家の勤めも私たち夫婦で楽しんでやってきました。
そんな中で事あるごとに、母が引いた境界線を察するようになります。
私は嫁いだ子で、うちの人間ではない。
そんな昔気質の実家であるのは理解していましたが、私は父や祖父母に特別に自己肯定感を与えてもらい育ちました。
それがわがままという意味ではないと思いますが、自分というものを強く持っているのは確かだと思います。
それゆえに、納得する理由もなく兄弟間で違う扱いをされる事がどうしても納得できませんでした。
娘だから、女の子だから。。。
息子だから、男の子だから。。。
女の子を理由に私が努力しなかったこと、許されてきたことは母にはありません。
父には女の子だから特別に着飾らせてもらったり、甘えてきました。
ただ母には、女の子だから人一倍の気配り、目配り、心配りを常に求められ私なりに応えてきました。
だからいつも納得のいかない理由、主に私の性格や素質を理由にされ、
「あなたは女の子だから嫁いだからあれはできないこれはできない」
「あなたのこうゆう性格のせいであなたは無理」
そう言われる度に、深く傷ついていました。
でも母って子供にとったら特別なんですよ。
そう簡単に嫌いにはなれないし、どんな事があろうとどんな事をされようと私は母が大好きです。
だから母に認めてもらえるように次々に頑張ってしまいます。
自分のこうゆうところがダメなのかな?
そう思われる自分の短所を端から端までしらみつぶしに克服しようとしていきました。
でも気付きました。
どこまでいっても女の子だから、この大義名分に打ち勝つことは私の母の場合は不可能でした。
私をありのまま受け止めてくれた存在は、父と夫です。
父はもうこの世にいないけど、夫が頑張りすぎて必死に耐える私の背中をずっとさすってくれていました。
頑張らなくていい、居てくれたらそれでいい、誰に認めてもらわなくても家族がいる、それでいい。
そうやって父が育んでくれた私の自己肯定感を夫が守ってくれていました。
そうしているうちに決定打となった事件が起きます。
些細な事で母と揉め、それが他の家族を巻き込み、結果私が孤立することに発展しました。
実は母といつかこうなるかもしてないとは予測していました。
もちろん企んでいたわけではありません。私だって家族を手放したくはなかったです。
でも薄々感づく何かがあったのは事実です。
自分を押し殺して生きるか、母との間に境界線を設けるか。
健全な家族間では、お互いを尊重し共感性をもって接することができます。
今考えると父が亡くなってから、我が家は機能不全家族だったと思います。
機能不全を私が必死に庇い、自分を犠牲にすることで機能させていた。そう感じます。
でも母を責める気には今もなれません。母には母にしか分かりえない苦労があった。
本当にそこは同情するし、だから今までそばで寄り添えたとも思っています。
私が縁を切るまで至った最もな理由は、他の家族の対応です。
他の家族は、私にこの12年間母を託していたにも関わらず、一切私に耳を傾けようとはしませんでした。
母が口にする自己防衛の言葉をすべて事実ととらえ、私を非難し孤立させました。
私は娘なんだから私が母を看るのは当たり前で、私が母に看てもらっていた。
他の家族みんながそう捉えている事実に、ひどく心が苛まれました。
母に看てもらっていたことも沢山あります。
健全な母娘だと思っていましたから、沢山甘えていたこともあります。
ただ前述したように、私が大事な存在を守りたかった。そんな想いを誰一人も想像すること察することもなかった。
これが悲しいけど事実でした。
時間はかなりかかるだろうけど、事実を少しずつ受け止めるようにしています。
その中で泣いて暮らすことは三か月経ってようやくなくなりました。
すると、この経験を人様のために役立てる本を執筆する気になってきました。
私の経験が人様の力になり得るかもしれない。
誰も恨むことなく、自分の人生に焦点をあて生きている私だから書ける人の心に明かりを灯す一冊になるかもしれない。
私も今まで人生で辛かった時は、本から言葉を探しました。
自分の力になり自分の心を整えられる言葉を多くの書籍から拝借し、今があります。
おしゃべりな私ですが、自分の自慢話を人にすることってなかなかなかったように思います。
本当に恵まれた環境で何不自由なく育ててもらい、父にも母にも親戚にも感謝しています。
そんな私でも私にしか知り得ない悩みは存在するのですね。
他の人にはわかりませんし、わかってもらう必要などないです。
寄り添ってくれる人はもう側にいます。
だからこれは悲しいストーリーではありません。
一人ひとりが自分の人生において本質的な幸せを手に入れ、自分らしく人生を全うするためのバイブルです。
そのために私の経験がお役に立てたら幸いです。