翌日久しぶりに出社した晴彦は、型崩れした背広で現れた。袖口から汚れたワイシャツがのぞき、少し髪は薄くなり顔色もくすんで見えた。今晴彦が置かれている状態が裕子には理解でき,心が揺れた。昼近く晴彦がパレスホテルのテラスレストランに裕子を誘そった。


 裕子がレストランに着くと、すでに晴彦は生ビールを飲んでいる。

「お待たせしました」

裕子は他人行儀に晴彦に挨拶をした。

「ああ、先に始めてたよ。久しぶりにローストビーフが食べたくなって」

「本当、久しぶりですものね」

 昨日、京子とここで会ったことを言いそびれた。

「相談ってなに?アメリカ行きの件?」

 晴彦は裕子をマスターズに同行すると約束していたのだ。もうそろそろ手配をしなければならない時期だった。

「いいえ、実は私、あなたを待つのに疲れてしまって。いつまでも待てる年齢ではないし」

 晴彦が決断しかねていることを、裕子のほうから切り出した。

「それって、別れたいっていうこと?」

「ええ」

 晴彦を直視して裕子は続けた。

「紙切れ一枚って重いと思わない?その点私たちって誰かに祝福されて結びついたわけではないし、しがらみもないから、別れるのって簡単でしょう。分けるべき財産も、子供の親権も話し合うべきことは何もないのですもの」

 昨日、同じ場所に座った京子の、自信に満ちた顔を思い出しながら続けた。

「これが奥様とだったら、どう?すぐに結論が出ますか?私はもう待つのは厭なの」

 晴彦が裕子と妻、京子のどちらも選択できない、優しさという名の優柔不断な性格だということが、裕子には手に取るようにわかる。晴彦との関係は、いずれ終わりがくることを覚悟していた。今がその時期なのだと裕子は決意した。離婚することで晴彦が失うものの大きさは計り知れない。誰かを不幸にすることで決して幸せにはなれないと裕子は信じていた。

二人の皿にローストビーフが切り分けられた。

「せっかくだから、食べようよ」

 晴彦の提案で、裕子はナイフとフォークを手に持った。少しずつ切り分け口に運んだ。クレソンとジンジャーの爽やかな香りがした。沈黙の間、晴彦は裕子を引きとめる言葉を探しているように見えた。思い浮かばないようで裕子の手をとった。

「ごめんね。オーガスタに行けなくなくなったから怒っているの?今晩君のところに寄るよ。もう一度話し合おう」

 裕子は、テーブルから静かに手を下ろした。

「こないで、もう決めたの、私。今ならあなたを好きなままお別れできる。けれどこのままだったら、いつかきっと、あなたを憎むようになるかもしれない」

 裕子はいつも晴彦の聞き役で自己主張など一切しない女だった。晴彦が驚いていることに気付いた裕子は続けた。

「私が強くなったって思ったでしょう。いて欲しいときに、あなたはいつもいなかったから。寂しさは人を強くするわ」 

「後悔しているのかい。僕とのこと」

「いいえ、本当に幸せだったのよ。あなたに帰るべき家があるのを忘れるほど」 

 裕子は顔をそむけて上を向く、溢れる涙を晴彦に見られたくなかった。

「嘘だろう。ねえ、僕はどうなるの?」

 不安そうな声で哀願する晴彦を後に、裕子は席を立った。テーブルの上に銀色に光る機体が残されている。裕子が使用していた晴彦の携帯電話だった。