2003年3月臨時総会が開かれ、かねてメインバンクから要求のあった山本社長の退陣が決まった。山本は筆頭株主ではあったが経営権限はなくなった。予定通り銀行から送り込まれた役員、田村専務が社長に昇格した。
総会後、山本社長を囲み秘書室の送別会が銀座三丁目にある老舗のすき焼き屋で開かれた。山本の退陣に伴い秘書室も人事異動が考えられた。室長は職を解かれ営業部門に異動になり、新しい室長は銀行からの出向者になるだろうと噂された。野田は社長と共に退社予定だった。三人のほか参加したのは晴彦、裕子と真美だけでこぢんまりと行われた。
「ご苦労だったね」山本が最初に口火を切った。
「これからは同族会社の時代ではないよ。ここで経営にこだわれば会社の存続はない。自分ひとりのことではないのだよ。多くの社員とその家族を路頭に迷わすことになる。「YAMAMOTO」というブランドと会社の名前が残れば、それで十分だと思っている。今日は僕から皆さんに日頃の感謝のつもりだから、存分に食べなさい」
「はーい」真美の元気な声が響いた。
仲居は馴れた手つきで、熱くなった鉄鍋に牛脂をなじませ霜降りの牛肉を並べた。割り下が入れられると、めいめいに玉子を割り始めた。晴彦は、いつも通りビールを飲み続けていた。
裕子が時折晴彦の小鉢に牛肉や春菊などを取り分けていると、
「あら、常務と裕子さんって、ご夫婦みたい」
真美が突然声を上げた。
「あれ、気づかなかった?みたいじゃなくて、そうだよ!」
ビールで酔いの回った晴彦は、真美に真顔で答える。
「そうなの?」
隣に座っている裕子顔を覗き込んだ。
「常務、そんな冗談おっしゃらないでください。」
裕子はテーブルの向かい側の晴彦に抗議した。
「柳沢さんは、よく常務に尽くしていますから、秘書の鏡ですよ。真美さんも少しは見習いなさい」
野田が真美をたしなめた。
「はーい」
真美は何事もなかったかのように箸を手にした。
「そういえば、柳沢君は晴彦の母親に似ているね」
山本は裕子のお酌を受けながら、しげしげと顔を眺めた。
「今度は、母親役ですか?」
裕子は、茶目っ気たっぷりに山本に抗議した。
「そうそう、君のお母さん誠子さんには、僕もお世話になったよ。秋田の工場の建設のとき、しばらく滞在していたからねえ。秋田の桜はこれからだね。今年は行ってみるかな」
山本は懐かしそうに遠くを見つめながら言った。お開きの後、山本や晴彦は銀座へ繰り出した。裕子は自宅に戻り、晴彦の戻りを待ったが来ることはなかった。