翌日から裕子の秘書室勤務が始まる。昨年入社の真美と一緒にデスクの掃除から植木の水遣り活花の水変えをし、朝刊をラックに整理する。コーヒーの匂いが漂い始める頃、役職者が次々と出社する。総務課にいたときと手順はたいして変わらないが、緊張した空気が流れた。
九時半をまわる頃、社長出社の連絡が車両室から入る。エレベーター前に秘書課員が整列し出迎えた。社長室に室長、野田課長がスケジュールの打ち合わせに入室すると部屋の空気は和らいだ。
「柳沢さん、コーヒーとお茶のどちらがよろしいですか」
真美が、裕子の席にマグカップを取りに来る。
「お茶をお願いします。お手伝いしましょうか」
「大丈夫です。これは私の仕事ですから」
真美は馴れた手つきで、それぞれの席に好みの飲み物を運んでいた。裕子には、しなければならない仕事はまだなかった。バックの中から携帯電話を取り出し、銀色に光る機体の電源を入れ、昨夜のことを思い返していた。
裕子は迂闊にもホテルのソファで寝てしまい、晴彦が戻ったのさえ気がつかなかった。晴彦に抱きしめられたような気がしたが、夢か現実か定かではない。裕子は慌てて飛び起き洗面所に駆け込み身繕いをしたが、恥ずかしくて出られなかった。その間に、晴彦はルームサービスに食事の手配をし、すべて整ったころノックをした。
「食事の用意が出来たよ。早く出ておいで」
裕子がそっとドアを開けると、晴彦は何事もなかったようにテーブルに着き窓の外を見ていた。
「待たせて悪かったね。遅くなったけど」
向い側の椅子を引き、裕子に着席を促した。
「買い物ありがとう、中々着替えを取りに行く暇がなくてね。助かったよ。昼は僕の取締役昇進の祝い。今度は君の取締役付き秘書就任を祝って乾杯しよう。これからもよろしく」
シャンパンの栓が音を立てて抜かれ、琥珀色の液体が細身のグラスに注がれた。グラスを合わせる軽い音が部屋中に響く。冷たい液体は、裕子の喉から胃に一気に流れ落ちた。
「携帯電話用意した? よかったらこれを使って」
銀色に輝く機体を、晴彦はポケットから出した。
「あ、用意するように野田課長から言われたのですが、大丸で探せなかったので助かります。よろしいのですか?」
「どうせ、僕は会社から支給されているし僕個人のだから遠慮しないで使って。僕の関係の所は殆ど登録されているから面倒がないよ」
手渡された携帯を両手で受け取ると、裕子は珍しい物を見るようにしばらく眺めていた。隣の椅子に晴彦は移動し、顔を寄せて携帯の使い方を教える。裕子は胸の鼓動が晴彦に聞こえるのではないかと息を詰めた。登録番号の一つを選び裕子に押すように言う。
ベルが鳴る。耳に当てると「もしもし」と隣から声がした。晴彦が悪戯っぽい目で笑いかけた。(つづく)