定例会議や社長への報告のため週に一度は、本社に来ることになった晴彦は「裕子ちゃん」から「柳沢さん」と呼び方が変わった。三十歳を過ぎたころ裕子が「いつまでも、ちゃんづけというのも、なんだか抵抗があります」と抗議したからだ。
ある日早朝会議の準備のあと席に戻ると、裕子の机の上に見たことのある紺色のブレザーが置いてあった。手にして裏返すと上着の内ポケットに「YAMADA」とネームが刺繍してあった。よく見ると一番上のボタンが取れかかっており、袖口も汚れている。
裕子は引き出しから小さなケースに入った裁縫道具を取り出すと、ボタンを付け直し、窓際の来客用のハンガーにかけて置いた。十一時近くに会議から戻った晴彦は、裕子の席に戻ってきた。
「ここにあった僕のブレザー知らない?」
裕子がハンガーから外し持ってくると、着せてくれと言わんばかりに晴彦は背を向けた。裕子は少し背伸びをして肩にかけると、片手ずつ袖を通しながら裕子の耳元でささやいた。
「ありがとう。ボタンもつけてくれたんだね。お礼にお昼をご馳走させて、パレスホテルのロビーで待っているよ」
にこりと白い歯を見せて微笑んだ。裕子は反射的に頭をコクンと下げうなずいた。会議室を新人の女子社員と片付けし終わると十二時近かった。裕子は地下にある社員食堂で昼食を一人で食べていたので、誰にも断る必要がないのは幸いだった。総務課長の佐々木に私用で外出する許可をもらいロッカールームに着替えに下りた。
外に出ると日差しが強く五月の中旬というのに汗ばむ陽気だった。裕子は一度着たジャッケットを脱ぎ手にも持つと小走りにパレスホテルに向かった。まだ回りにはレンガ造りの建物もある丸の内のビル群を抜け、日比谷通りを渡ると皇居のお堀端にあるホテルが見えてきた。年月を感じさせる重厚なロビーに晴彦は立っていてそこだけ明かりが灯っているようだった。裕子を見つけると晴彦も駆け寄ってきた。
「大丈夫? 抜け出せた?」
裕子の背に手を回し手際よく奥のテラスレストランへ案内した。大きな窓ガラスの奥にお濠が見渡され、スワンが二羽並んで泳いでいた。黒服のウエイターが二人を窓際の席に案内し、椅子を引き裕子を座らせた。四人がけのテーブルには糊の利いたブルーのクロスが掛けられ、ナプキン、グラスが二ずつセットされていた。お濠の向こう側には新緑の木々が輝いて見えた。
「今日は暑いね。まずビールで乾杯しよう」
メニューを持ってきたウエイターに、小ジョッキーとグラスビールをオーダーした。
「えっ、昼間からアルコールですか」
「大丈夫だよ。君だっていける口でしょ、これぐらいどうってことないよ。それに一緒に祝ってもらいたいこともあるし」
ビールが運ばれると、晴彦に促され裕子もグラスを手にした。霜で白く曇ったグラスは、暑さでほてった身体に心地よかった。
「いよいよ、取締役になられたのですね。おめでとうございます」
今朝の会議で晴彦の昇進が決まったはずである。あとは六月の株主総会で承認されるだけだった。裕子がグラスを差し出すと、晴彦のジョッキーも寄せられ微かな音がした。ビールを一気に飲むと、ウエイターに空のジョッキーをかざして追加注文する。
「知っていたの?当分は営業部長との兼任になるので、今まで通り六本木に席はあるけど、君の元にいける日が少し多くなるかな」
晴彦の何気ない言い方に裕子は頬を染めた。気が付かれないようにグラスを手にした。二杯目のジョッキーが運ばれるころ、生ハムとメロンが出される。晴彦は器用にハムにメロンを包み込み瞬く間に平らげた。
「ようやく食べ物にありついた。ここのところ飲んでばかりで、今日は食事の相手がいてよかった。ここのローストビーフはお勧めでね、一度君に食べさせたかったんだ。ワインにする?」
晴彦はブレザーを椅子の背に掛けると、ウエイターに赤のハウスワインを裕子のために注文し、又ビールを頼んだ。晴彦はネクタイを緩めワイシャツの袖をまくった。袖口が薄っすらと汚れていて晴彦の家庭生活を覗いたようで裕子は目を逸らした。
「お昼からそんなに飲んでいいんですか?私、もういただけません」
「大丈夫、これぐらい顔にも出ないよ」
フランスパン、季節野菜のサラダ、そしてメーンデッシュのお皿が配られると、各テーブルにローストビーフを切り分けるサービスワゴンが廻り始めた。大皿に二切れの肉がのせられクレソンとすり下ろしたジンジャーが添えられた。ナイフを入れジンジャーとクレソンを巻き込んで口に入れると、甘い肉汁が広がり、野菜が爽やかに香る。裕子は美味しさを共有できる幸せをしばし楽しんだ。裕子が腕時計を見ると一時を過ぎていた。膝に広げたナプキンをたたみ掛けた。
「コーヒーぐらいゆっくり飲んでいきなさいよ。話はこれからだから」
「お話ってなんですか?」
少し酔いが廻ったのか、晴彦の体がグラリと揺れた。裕子は慌てて晴彦の脇に寄った。
「大丈夫ですか」
顔を覗き込むと、額に脂汗があり、顔色も心なしか土色に見えた。
「ああ、近頃寝不足で、少し酔ったのかな。君悪いけどこれでチェックしておいて」
と、ルームキーを渡された。ウエイターが届けた伝票に晴彦のフルネームでサインをした。レストランを出ると晴彦は窓際の壁に寄りかかっていた。
「悪いけど部屋まで送ってくれる?」
裕子の肩にもたれるように腕を回して裕子を覗き込んだ。裕子はうなずきゆっくりとフロント前を通りエレベーターホールに向かった。昼下がりに客室に上がる客は二人だけだった。裕子の肩にもたれかかった晴彦の重みが増してくる。
「奥様、お元気ですか」
「今、お受験の最中でね」
晴彦は多くを語らなかったが、京子は子供に手一杯で夫の世話まで手が廻らないのだろうと裕子は推測した。
「ここですよね」
裕子は手元のルームキーと部屋の番号を照らし合わせた。キーを差し込みドアノブに手をかけると晴彦の手が重なった。晴彦の手を振り払い、
「失礼します」
と、一目散にエレベーターホールへ向い、ちょうどドアの開いたエレベーターに飛び乗った。腕時計を見ると一時半を廻っていた。外に出ると日差しはさらに照りつけ、裕子はジャケットを手に持ち急ぎ足で会社に戻った。
席につくと「総務部長席においで下さい」とメモが貼り付けてあった。
「遅くなりました。何か御用でしょうか」
息を整えながら、ハンカチで汗を押さえた。
「珍しいね。食事に出かけるなんて。知っていると思うが広報の山田部長の取締役昇格の件なのだが、広報部長も兼任なので六本木と本社と行き来をしなければならないのでね、連絡役の秘書に君を指名してこられたのだが、どうだね」
眼鏡の奥から探るような目で机の向こう側から裕子を見上げた。
裕子は一瞬驚いたが、晴彦の話はこの件だったのかと頷いた。
「業務命令ならお受けします」
裕子でなければ出来ない仕事があるわけでもない、代わりは新人に任せればよいのだと総務部長は引きとめもしなかった。
「そうだな、ではこれから秘書室に打ち合わせにいってもらおうか」
この日から裕子の生活は一変した。(つづき)