青空が見える。地下鉄神楽坂駅、傾斜のきつい階段を「早くエスカレーターにならないかな」と、裕子は小声でつぶやきながら上った。目の前が徐々に明るくなってきたので顔を上げると青空が見えた思わず残り五段ほどの階段を一気に駆け上がる。


昨日までの雨とは打って変わって空も抜けるように青く雲ひとつ無い。交差点の信号待ちの間、空に向かって深呼吸をして息を整えた。普段,排気ガスでいっぱいの空気も今日は澄んでいる。


信号が変わると横断歩道を渡り、ゆっくり行きつけの美容室に向かって歩くと、左手に出版会社の社屋のビルが見えてきた。手前の灰色のトタンの囲いの中から満開の桜の枝がのぞいている。「まだ咲いているのね」裕子は桜の枝の下に立ち止まりしばらく見上げた。板橋の自宅マンションから電車を乗り継いで、ここまで来る間一度も桜の花に気づかなかった。三月の半ばに開花宣言があったが、花見をする機会もなくすっかり忘れていたのだ。

 

 白地に赤の斜線の美容室の看板が見えてくる。厚いガラス扉を開けると、すかさずアシスタントの男の子が飛んできた。持っていたバックとジャッケットを手渡す。「いらっしゃいませ」と店のあちこちらから声がかかる。

「こちらへ」 案内された左奥にある椅子へ腰掛けると、オーナーの池田が、黒のTシャツに皮のズボンで皮のべルトとブーツというパンクファッションで出迎えた。

「こんにちは、今日は どうするの。いつも通り?」

 鏡の中の裕子は、肩まで伸びた髪はだらしなく疲れて見えた。「短くして」鏡越しに言葉少なに答えた。「はーい。後でね」 池田は、何も聞かず先客の席に戻っていった。アシスタントの男の子が入れ替わりにカラーの色の確認をし、手際よく髪をまとめてヘアマニュキュアをしてゆく。いつもと変わらぬ手順だ。


 池田とはまだ独立する前からの付き合いで十年以上になる。月に一度この店に訪れるが、特に髪型に注文をつけることはなかった。座ればその時々の流行を少し取り入れまとめてくれる。毛質が強く量も多い裕子は、必ずカットの合間に手を止めてため息をつき「多いですね」と言われ続けてきた。自己主張できない裕子にとって池田は貴重な美容師だった。アシスタントもむやみに話し掛けないのも好い。裕子は週刊誌を膝の上に広げて、ボンヤリと鏡に映る自分を見ていた。

 

 三月の半ばに晴彦と別れた裕子は、その日以来何もする気がなく、職場には「遅いインフルエンザに罹ったのでしばらく休む」と伝えてあった。四月一日付けで秘書室から資料室に異動があったばかりだ。この時期入社式などもあり、以前の裕子ならどんなに体調が悪くても出社していただろう。

 しかし、すでに後輩に引継ぎは済ませてあり、資料室には引き継ぐほどの仕事もなかった。人事に不満があったと周囲には思われているかもしれないが、裕子は周囲の噂を気にする余裕もないほど憔悴していた。着替えもせずパジャマのままで、冷蔵庫にある牛乳と果物で数日過ごしていた。

 

 今朝はカーテンの隙間から差し込む陽光で目覚めたが、出社するには遅い時間だった。裕子は急に美容室に行くことを思いつき、食事も取らずに出てきたのだ。アシスタントが入れたコーヒーは既に冷めてはいたが、飲むと喉が潤い次第に身体が温かくなり少しまどろんだ。(つづく)