49才の現在、


100まで生きるとして、


まだまだ半分くらいですが。。。




これまでの人生で、


命の恩人と呼べる方は、


ただひとり。





精神科医の


斎藤学


さいとうさとる


先生です。





麻布十番で


さいとうクリニックを


運営されています。






わたしは、


忘れもしない


2009年3月14日


(当時39才)


金髪のショートカットのカツラをかぶって


(笑)、


めちゃくちゃ勇気を出して、


姫路から新幹線に乗って


麻布での


家族機能研究所での


オープンカウンセリングに


参加すべく出動しました。





二日にわたるオープンカウンセリング。


二日目の15日に


もう、またまた死ぬほど勇気を出して、


手を上げて、


前に出て、


オープンカウンセリングをしていただいて、




職についても、長続きせず、



拒食と過食を繰り返し



引きこもっていること、



親(特に母親)と葛藤があること、



などなど、



当時の'死にたい'状況をお伝えしました。





そして、


斎藤先生に


「君は


親と離れなさい。」


と、


当時のわたしからしたら、


「?」


親と離れる??


なんで??






自分の中からは、


何をどうひっくり返しても


絶~っ対に出てこない


お知恵をいただいて、


人生の方向性が、


'死にたい'


から


'死んでたまるか'





変わって行ったのです。。。





わたしは、


母親から、


4200グラムもする


巨大児として生まれたことで、


小さいときから、


責められて育ちました。





生まれて来ただけで


お母さんを殺しそうになった


罪人。





わたしが生まれた日は、


3月も半ばになろうというのに雪が降るさぶい日。


お母さんは、


ベッドに空きがなく、


地べたに寝かされたそうで・・・。




わたしが生まれた後も、


お父さんは、


「また、女か」


といって、


見舞いにも来なかった・・・。


(母方のおばあちゃんから


耳にタコが出来るほど、聞かされました(笑))






「あんたには


殺されそうになった。。。」







「あんたのせい。」






ことあるごとに、


「あやまるんか!」


「あやまるんか!」


「あやまるんか!」


と髪の毛をつかんで振り回されました・・・。








戦国時代の仇同士だったころの


因縁解消のための


親子関係だったりするのでしょうが、


まぁ、子どものうちは、


そんなことには気づかないですから


辛かったです。



(今は、


笑って書けますが。)





で、


長いこと、葛藤のもつれ合いの状態のままで来て、


親とは、


和解するまで離れられないと


思い込んでいました。





許さないといけない、





思いつめていたのです。







でも、


斎藤先生にお会いして、


先生は、


一瞬で、わたしの問題を見抜いて


いきなり、


「親と離れろ!」


と言って、


わたしの脳天に雷を落としてくれました。





親と一緒にいるままでは、


わたしに未来はないことが、


先生には


丸見えだったんですね。







その時に、


「東京が、いいんじゃない?


そうだなぁ港区だね。


(クリニックがあるのは港区。


「クリニックに通えば?」という意味)」


と、言われ、


またまた、


東京??


この年で??


と、


自分からは


出てきそうもない、


アイデアをいただきました。






当時、


引きこもりながらも、


何か肩書きが欲しくて、地元で


日舞を習っていて、


その流派で「名取になる」という目標を持っていました。




そのことをお伝えすると、


「地元にいて、


名取になるのもいいかも知れないが、


東京に来たら、


君の人生は、5年で、


こ~んなに変わるよ。」


と、


両腕で、大きな丸を作って、


わたしの未来の可能性というものを


示してくださいました。





その、


オープンカウンセリングの後、


地元に帰ってから・・・







「予約が取れない医者」というので有名な斎藤先生。


新規のクライアントは、受け付けていない、


と聞いていたのに、


またまた勇気を出して、電話をして


秘書さん経由で


月一回のカウンセリングの申し込みをして、


奇跡的に面談してもらえることになり、




その後、月一回、2回ほど、


新幹線で通ってから、


その年の8月に、


いろいろな方のお助けをいただいて、


港区ではなく台東区に住まいを得て、


東京での生活を始めることができました。






39才で、


職も、知り合いもなく、


月一回の先生との面談のためだけに


東京へ移住。





月一回の面談も、


一回5分のみ、投薬もなし。





今思うと、


笑えるほど、むちゃくちゃですが、


当時のわたしは、命がけ、


でした。






人生を変えるんだ。







親との約束は、5年。


その間に、


何かを見つける。






振り返っても、


よく、あんなこと


できたなぁ・・・


と、思います。






罪悪感と無価値感のカタマリで


肥大化した承認欲求のオバケ。


(これでも、


今、だいぶマシになって来ているのです・・・)





まずは、


親を許すより、


いったん、


全部


親のせいにする、


親のせいにして、


親から


離れる。




そして、


出直す。






斎藤先生に出会わなければ


あの方向転換は


できませんでした。





何ごとも、


段階というものがあるらしく・・・。






誰のせいでもない人生の発見のために、


1度、すべてを


誰かのせいにする。





死にたいほどの

Powerless

パワーレス状態から

復活してゆくには、

そんな段階も、

必要だったりするのではないでしょうか。












そんな命の恩人の斎藤先生なのですが、


オープンカウンセリング後、


奇跡的に診てもらえることになって、


初めて診察室に、


お邪魔した時の、


先生のお顔・・・


忘れもしません。




「えーっと、


誰だっけ?」





この先生との出会いが、


わたしにとって、


第3の眼を使って、


一瞬一瞬の


お仕事されているプロとの


初めての出会いとなりました。





あまりにも、たくさんのクライアントの

面倒を見ておられて

すべての方に

一瞬一瞬集中されている(なにしろ1クライアントにつき5分)ので、

一ヶ月前に会った人に、

「えーっと、

誰だっけ?」

ってなるんですよね・・・。




承認欲求まんまんの当時のわたしには

ショックな出来事でしたが、

そのお仕事ぶり、今でも

尊敬しかないです。





さいとうクリニックには、


一年ほどお世話になって、


クロスオーバーするかたちで


スピリチュアルの指導者の方々との


出会いが増えて行きましたが。。。





斎藤先生は、

精神科医ですが、

わたしにとっては、

'直感使いの魔法使い'。




わたしの命の恩人は、


スピリチュアルティーチャーではなく、


精神科医。






スピリチュアルを標榜しない


スピリチュアルな方。






わたしのタブー中のタブー、


一生の中で、


もっともお世話になってはいけない、


と決めつけていた、


「精神科」。




TVニュースによく出てくる


恐怖のワード。



「犯人は


精神科に通院歴があり・・・」





ふたを、開けてみたら、


(タブーを超えてみたら)


わたしにとって、


精神科は、


いのちの復活のための


「泉」


となりました。






それでも、ずっと、


精神科に通院歴があることは、


わざわざ言わなくても良いことだと


思っていたのですが、


ブログを始めてからは、


いつかは書こう、でも、


いつ、書こう?


と、思っていて、


今日が、その日となりました。






わたしが、


拒食と過食に


さいなまれていた頃の自分に、


今日、


ウェルカムを


言ってあげます。


















長くなりましたが、


お読みいただいて、ありがとうございます。




まだまだ、


いろんな意味で途上のわたしですが、


今日も、


応援してくださっている皆さまに


感謝して。