生きている時間に祈りを含ませていく。 | 【うずめカフェ】ikukoのブログ。身口意そろえて味わう人生を。

【うずめカフェ】ikukoのブログ。身口意そろえて味わう人生を。

身口意そろえて、
味わう人生のために。

【うずめカフェ】ikukoのブログです。

身口意そろえて人生を味わい、
楽しく幸せに面白く体験したい。
そんなお手伝いをしています。
自分の体験からくる日々の知恵や目線をシェアしています。


祈りって、

自分の「ケガレ」を水洗トイレみたいに

勝手に神様パワーでどっかやって

【もらう】ことじゃないよね。



一方的に「清め」を自動販売機みたいに

勝手に神様パワーで与えて

【もらう】ことじゃないね。




人はそれぞれの【祈り】を

生きている時間に含ませてゆくとき、

もっと、ずっとたくましい。


 


そもそも、人は本来生きている上で

生命においての新陳代謝が続き

穢れというのはないのだそうだ

 




だけど、


多くの人の魂はチャレンジャーだから

うまく付き合えないような

詰まり、滞り、澱みの癖や

何かしらのトラブルをおいて

 

自分の中の新陳代謝を 深刻な問題にしてしまう。


祈りをなんらかの幸せの条件づけや

神仏がもたらすものへの方法だと捉えてしまって

祈ったように生きることを難しくしている。



「穢れ」をたくさん産んでいるような

そんな気持ちにだってなるだろう。


欲深さも悩み苦しみも性格の悪さや罪も。。。

汚いな、醜いな、と思う

人の「穢れ」のような部分は、


心が未熟に解釈したものを

難しく複雑にしたり

閉ざして拗らせたり

滞らせたままほったらかしたりして

生成されてしまうところが確かにある。


けれどそれは、


生きている時間に祈りを含ませている人に触れ、

祈りを感じられる大自然に触れ、

その豊かさに触れたり出逢えたりしてゆくうちに


経験しながら消化したり

困難を咀嚼して流して、やがて自分で

「穢れ」にしていたものを祓うように

心を新陳代謝してゆけるんだ。



人はその力を持っているのだと思う。



祈りの対象が太陽信仰や自然信仰でも
近所のお地蔵さまでも氏神さまでも
ご先祖さまでも、

 


自分が信仰する神仏に祈った祈りは

優しい慈雨のように

生きている時間に含ませていくことになる。


ありがとう、を祈ったなら

ひと呼吸ごと、生活の起きて寝るまで

ありがたいことを感知しようとするだろう。


新たな縁を願ったなら、その両手は

新たな縁と手を繋ぐために準備を始め、

その足は新たな縁と出会うために動く足になる。




そう意識して道々経験してゆくと

その複雑さや困難をほどいて溶かして

自浄作用ができる本来の力を

思い出してゆける。


または

目覚めさせていく。

祈った神仏と共に育てていく。




神仏に一方的にしてもらうための条件付けが

祈りじゃないと思う。


自分が産んだ生モノの祈りを

生きる時間に含ませながら、の意識が

日々の行動を少しずつたくましくしてゆくよ。

 



人がこの世界に神仏を見出し祈る力は

魂の望む生き方を
その魂と身体と心とセットで 体現してゆくために

発揮されていくもの。

祈ったように生きていくために発揮されるもの。





人はそれぞれの【祈り】を

生きている時間に含ませてゆくとき、

もっと、ずっとたくましい。



巡禮記の先達のお仕事を通して

日々実感していることであり

これからもコツコツと伝えていきたい。



巡禮記 松本育子



☆♪☆♪☆♪☆♪☆♪☆♪☆♪☆♪☆

●私がお参り先達をチームで
させていただいている
【巡禮記】のページはこちら。

●巡禮記 ホームページ
https://jyunreiki.com/

●お参り遠足・ツアースケジュール

☆♪☆♪☆♪☆*☆♪☆♪☆♪☆♪☆♪