いい人でいることの難しさ(まとめ版) | いわき市台風被害掲示板★南相馬、浪江町、双葉町、錦、勿来等

いい人でいることの難しさ(まとめ版)

英会話学校の私のクラスメートと、家内のご近所の知り合いが、同一人物であることがひょんなことからわかった。

 古本屋に行ったら、家内が主婦と親しげに話し込んでいる。顔をみたら私のクラスメートのTさんだったので驚いた。


 Tさんは、お子さんの年齢から察するに私ら夫婦より少し年配だ。非常に感じのいい方で、いつも上品なほほえみを浮かべている。ただ、私は、ひそかに一つの疑念をもっていた。


 あんなにいい人でずっといられるものなのだろうか? と。


 Tさんは、いつも笑顔で、誰にでも愛想がいい。どんな図々しい人が話しかけてきても、丁寧に応対する。眉間にしわをよせているのを見たことがない。


 私は、いい機会だったので、家内に聞いてみた。「Tさんって、お前の前でもいい人なの?」と。家内の返事は、「すごくいい人。ご近所でも評判のいい人」というものだった。


 私の疑問はさらに深くなった。そんなに年がら年中、二十四時間、いい人でいられるものなのだろうか?


 心理学の本を読んでいると「いい人」のことが出てくる。大概、いい人の周囲には、ハイエナのように意地悪な人が集まり、いい人の善意を食い物にする。だから、いい人には神経症の人が多いのだそうだ。


 私は、思い切ってTさんに聞いてみた。「Tさんは、いつもいい人だけど、そうしていると、ハイエナのような人に食い物にされている自分を感じたりしないですか?」と。


 そしたら、Tさんは、「実は、そうなのよ!」と信じられないことを告白し始めた。


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 どこから見ても「いい人」のTさん。だが、その悩みは驚くほど深かった。


 「いいお友達はいます。でも、確かに、”ちょっと、利用されてるかな”とか”この人、ずるいなあ”とか感じる知り合いも多いです。ただ、だからと言って、邪険にするわけにもいかないし。そういう時は、少しずつ距離を置くようにしますけどねえ」


 Tさんの答えに、私はすかさず切り返した。「いい人というのは、いい友達といい関係を築く幸せな人もいます。でも、ずるい人、図々しい人に食い物にされる場合が多いんですよ。ずるい人、図々しい人というのは、いい人を見抜くのがうまいし、その関係を深めようとします。それが、そのいい人を利用してやろうと思って近づくのか、友達が少ないから(図々しい人は友達が少ないですよね)自然に、優しくしてくれる人に寄っていくのかわかりませんが、とにかく、いい人と図々しい人の関係というのは意外に多いんですよ」


 Tさんは、「そうですねえ。私、意外と気を遣うほうなので、気疲れしてしまうことがあります。他人が思っている以上に、気疲れしてるかも」


 私は、試しにTさんの肩胛骨の上にあるツボを押してみた(私は指圧の名手なのだ)。驚いたことに、Tさんの背中は、カチンカチンにこっていた。つまり、Tさんは、気疲れやストレスを、外にはき出すことができずに、体の中に貯め込んでいたのである。これは非常に恐いことだ。


 結果的に、いい人は、そのエネルギーを図々しい人に吸い取られ、利用されてしまう。そのストレスで病気になってしまう人さえいる。悲劇である。


 私は一歩進めて質問してみた。お子さんとの関係についてだ。






 この場合、いい人は、自分が利用されていると知りながら、図々しい人との関係を断ち切れない場合が多い。その関係によって、自分のエネルギーが吸い取られても、損をしても、自分のことだから「しょうがない」と割り切れるのだ。自分がイライラしようが、損をしようが、自業自得だから割り切れる。


 だが、このいい人に子供がいる場合、少し、事は複雑になる。親というのは、自分に降りかかる火の粉なら耐えられるが、子供に降りかかる火の粉には耐えられない。


 母親の遺伝子をもち、その母親に育てられたのだから、子供もきっといい人(いい子)なのだろう。だが、親から見て、子供が利用されていると感じたとき、どう思うだろうか。ましてや、自分が利用されているから、子供が利用されているのも敏感にわかる。


Tさんの答えは、驚くべきものだった。なるほど、この一家は、こうやってバランスをとっていたのである


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 周囲の誰もが認める「いい人」の主婦・Tさん。周囲に利用されることを甘んじて受けながらいい人を演じてきたが、ストレスを体の奥深くに貯め込んできた。


 だが、この人が際限なく「利用される苦痛」を受け入れてきたわけではないようだ。


 「うちの高校生になる上の子が、私とは正反対の性格で、なんでもズケズケと言う子なんです」とTさん。


 これで謎が解けた。


 つまり、Tさん一家は、母親のTさんがいい人であるがために、人に利用されることが多かったのである。Tさんはそれを受け入れてきたし、ストレスを感じながらもそれに甘んじてきた。


 お子さんを育てながら、その生き方を変えなかったのだから、「利用される」という立場は、子供を含む一家全体に影響を及ぼしてきたはずだ。


 子供たちはそれを受け入れざるを得なかった。だが、その一番上のお子さんは、その「利用される」という立場を拒否したのだろう。


 これによって、理不尽なことでも際限なく受け入れるという、Tさんの底なしのストレスに歯止めがかかった。


 Tさんは、「ズケズケとものを言う性格の子」と表現したが、私はそうは思わない。私は、そのお子さんに会ったことがないが、多分、そんなに図々しい、悪い性格の子ではないだろう。多分ではない、間違いなくいい子なのだと思う。


 子供だって大きくなってくれば、親も含めた自分の周囲の「関係」というのは見えてくるものだ。それが見えてきた時に、親の苦しみ、ストレスを感じたら、どうにかしてそれに歯止めをかけたくなる。「ズケズケとものを言う」というのは、多分、親が受けている底なしのストレスに歯止めをかけようとしたのではないか


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ご近所一のいい人・Tさんを研究してわかったのは、Tさんが、「自分のいい人ぶりを利用しようとするハイエナ」と「そうではない人」をしっかりと峻別できていることだ。

 Tさんは、「そういう人とは距離をおくようにしている」と言っている。  さて、Tさんが「ハイエナ」と距離を置くようにした時、周囲の人は、どう反応するだろうか?

 「まあ、Tさんって、なんて冷たい人」と思うだろうか。実は、そうは思わないのである。  人の感じ方というのは、それほど違いがないもので、ハイエナのような人というのは、周囲の人からも「図々しい」と思われているものだ。周囲の人はむしろ、Tさんが「ハイエナ」に距離を置くことにホッとすると思う。(私自身、Tさんの行動を観察してきて、Tさんがハイエナに距離を置いたとき、つい「おお、やっぱり」と心の中で声を上げたほどだ)  この「距離を置く」というのが、本当にいい人というのは名人芸的にうまいのかもしれない。

 多分、私が家内と結婚した理由というのは、この彼女の「いい人」ぶりと関係しているかもしれない。


  さて、話をTさんにもどそう。  Tさんの場合、Tさんが「いい人」でいることによる問題は何も起こっていない。  Tさんは「ハイエナに食い物にされることがある」という状況を自覚しているが、それは、「ハイエナと距離を置くこと」で表面上、解決している。  このブログを読んでいただいている人の多くは、「いい人」なのではないだろうか。そうでないにしても、「いい人でありたいと願う人」かもしれない。


 そうでなければ、こんなブログを読む暇な人はあまりいないだろうと思う。  「そうそう、そうそう。そうなんだよね。辛いんだよね、いい人でいるのは」と思いながら、多分、「それで、それで。いい人でいるにはどうしたらいいの?」と思っていることだろう。


 結論を言おう。  選択は二つに一つだ。  一つ目の選択は、いい人と呼ばれるために、神経をすり減らしてハイエナたちの餌になり、本当に自分がしたいこと。本当にそうありたい生き方を捨てて、ハイエナたちからいい人と呼ばれ続けることである。多分、そういう人は、ストレスがたまるだろうし、自己実現とはほど遠い人生を歩むだろう。ストレスがたまれば病気にもなるし、早死にもする。自分が望んでいる生き方ではないから希望はあまりないだろう。だが、そういう生き方を望んでいるのだからしょうがない。死んだ後「ああ、あの人はいい人だったねえ」とハイエナたちは言ってくれるかもしれないし、言ってくれないかもしれない。私の想像ではハイエナたちは、悲しむより先に、新しい獲物を探しに出かけるのではないだろうか。  実は、私の家内と母親がそうだった。  私の母親は、ご近所でも有名なほど「いい人」で通ってきた。


 人の悪口も言わないし、なんでもいいなりになるので、利用されることが多かった。  私の姉はそんな母親が歯がゆかったようだ。姉が「何でもズケズケと言うしっかりものの娘」という有りようになったのは、母の生き方と無縁ではなかったと思う。  ご近所の寄り合いでも、一番割の合わない仕事を引き受けてくる。親戚が集まるお悔やみの時でも、一番割の合わない仕事を引き受ける。


 私たち兄弟は「ああ、お母さんらしいなあ」と笑い合いながら、「こういう生き方はどうなんだろうか?」とずっと考えていた。


 ただ、だからと言って母を嫌いなわけではない。そんな風に生きて、いつも損をしている母親が大好きだったし、尊敬していた。  そのことと、私が結婚した相手(今の家内)が私の母親のような人だったことと無縁ではないかもしれない。


 私の家内も、そういう人だ。私との夫婦げんかは、「お前がいい人でいることによって、お前が損するのは構わない。だけど、子供ができたら少しは考えなくちゃいけない。お前がいい人でいたいがために、子供が損をするようなことだけは避けてくれ」。私の言い分はいつも、そんな風だったし、家内は家内なりに、どういう母親になるかは、悩んだはずだ。


 二つ目の選択は、「いい人であることを捨てること」だ。いや、正確に言えば、「いい人であることはあきらめる必要はない。ただ、いい人と呼ばれたいという欲望は捨てること」だ。  いい人と呼ばれたいなんていう人は、結局の所、自分のパートナーや、子供を苦しめながら、いい人を演じ続けることになる。  一番近くにいる一番大事な人に迷惑をかけながら「いい人」と呼ばれることにどれほどの意味があるだろうか。ご近所や友人知人、100人に「いい人」と言われても、一番身近な家族にため息をつかれていたら、それにどれだけの意味があるだろうか。


 私はたまたま、Tさんのストレスが、背中へのコリとなって披露として蓄積していることを感じたが、それをTさん自身が許容できるのなら、それ自体「Tさんの人間としての懐の深さ」ととらえることもできなくもない。  実際、英会話教室のクラスメートも、ご近所の人々もTさんを「いい人」と認め、尊敬している。


   私は、「いい人と呼ばれたい人の中に、ハイエナの餌になり神経症になる人がいる」と書いたが、Tさんは、そうはならないだろう。


 では、神経症になるいい人と、神経症にならずに尊敬されるいい人との違いは何なのだろう。  いい人だから結婚したのではない。私は、彼女のいい人ぶりがハイエナの餌にされるのが耐えられなかったのである。(彼女も、ハイエナの餌になるぐらいなら、私と結婚したほうがマシと思ったのかもしれない)  家内に望むのは、Tさんから「ハイエナとの距離を置く」という名人芸を学んでもらうことである。


 逆に言えば、こういう名人芸が「できない」とか、「そんなの面倒くさい」と思う人は、いい人と思われることをあきらめなければならない。  私はすでにそれをあきらめ、せいぜい「普通」と思われるぐらいの人を目指している。