ボスニアからの学生 | いわき市台風被害掲示板★南相馬、浪江町、双葉町、錦、勿来等

ボスニアからの学生

 ダラスのホテルに宿泊しているが、深夜のフロントで窓口のアルバイトをしている青年とお友達になった。


 部屋のカギを閉じこめたまま外に出てしまったために、フロントに「新しいキーを作って」と言いにいった時だ。私が日本人だと分かると彼は、「自分も、日本にヨーコという友達がいる。彼女が運営しているグループのお陰で、僕は、米国に留学でき、今、経済を学んでいる」といった。彼は、ボスニアの出身だと言った。


 私は、「想像するに、あなたの家族は、戦争で、厳しい時代を過ごしたのではないか?」と聞いた。彼は、「今も家族は大変だ。だから、僕は、学校で学んで、国にかえって、家族を助けたい」と言った。


 そして、日本の若者たちが、自分たちのために「紙で作った鳥を作ってくれた」といった。私が「それは、折り鶴と言って、日本人が、誰かの幸せを願うときに作るものだ」というと彼は、「そう、ツルだ」とうれしそうにいった。



 日本の若者が、紛争国の援助や救援活動をすることを、「余計なこと」と考えるような風潮が、今の日本にはある。


 イラクやアフガニスタンに救援活動に行き、人質としてとらえられたような人を、「余計なことをして、政府にいらぬ負担をかけた」というように非難する人がいる。



 私は、そうは思わない。


 自分たちの考えが正しいと思い、命をかける気構えがあるのなら、実際に行動してみればいい。そんな若者の行動を非難し、救出のためのお金がもったいない、と思うような国は、間違っていると思う。



 若者が、正義のために行動をとることにブレーキをかけるような国であってはいけないのではないか。そんな若者が窮地に立ったときに、犯人側に国が身代金を払うようなことになっても、堂々と払えばいいのではないか。そんな若者の善意を踏みにじるような犯人の横っ面に札束をたたきつけてやればいいのではないだろうか。


 そういうことに国が税金を使うのは、正しいと思う。


 善意の若者を人質にとるようなグループがあるからといって、すべての若者の善意が「見当違いだ」と結論づけるべきではないのだ。


 政府が、そういう若者を非難するような世論を作ろうとするのは、彼らによって、現地の本当の姿、本当の声が伝わることを恐れるためだ。(メディアは、政府の意向に沿わないと、取材ができないから、本当のことを伝えられない)


 メディアが、そういう若者を非難するような世論を作ろうとするのは、彼らが大した取材ができていないことを、暴露されることを恐れるためだ。


 ホテルの夜勤で働きながら学校に通っているボスニア青年は、ヨーコという日本人女性と、日本という国に、本当に感謝し、親近感を持ってくれていた。


 若者の善意は、時には見当違いになったり、非効率的になったりするかもしれない。それでも、それが本当の善意から生まれた行動なら、いつかは相手に通じるのではないだろうか。


 私は、日本という国が、見当違いで無邪気な若者の善意を、もっと大切に思えるような国であって欲しいと思う。


 そして、若い人には、政府や、巨大メディアが作った世論に負けずに、どんどん直接行動に出て欲しい。


※もちろん、英会話ぐらいは勉強してからです。そういう基礎がなければ、人の役に立てるわけはありません