かなり久しぶりのブログ

前のブログからどのくらいたったのか…?

いやいや色々な事があった


まずは大好きな父が去年8月に亡くなった事
一昨日亡くなった父の孫でもある
私の姪っ子の1周忌の命日までは
生きて欲しかったが
それを待たずに父は亡くなった

父は家にて在宅看護をうけていたが
父の強い希望で延命治療はせず
家にて父が望むように自然なカタチで
父は逝った

父は以前私が見た
看護僧侶かおっしゃるような流れだった
何回も照らしあわせながら
父の状況をみたが
理解出来なかった事も亡くなってみると
本当に同じだった

私はずっと父の生命が終わる瞬間を
みる事が希望だった
職場は実家に近かった
電話がきてすぐ帰ったが
父が逝ってすぐに私は父の元についた

母も父に髪を切ってくると言ったら
いいよ…と了解をし
父の事を知ってる方だったから
ショートの母は行き帰りも含め
40分もかからなかったとか

その美容室に義姉が電話をいれた時には
母はもうそこをでており
母がついた時に
母の顔を確認した後、すぐ息を引き取ったとか

私はその直後についた

甥っ子が遅い朝の挨拶に行ったら
呼吸が荒くなっていて異常に気づき
甥っ子がずっと父の手を握り
義姉と2人で生命の最期を見届けてくれた
泣き叫ぶ私に
大学生の甥っ子は
本当に今だったからじいちゃんは
郁ちゃんを見たと言ってくれたが
私は父の息をひきとる姿を見れなかったのが
悔しかった



私は父がとにかく大好きだった
私は父に「どうして私を待たなかったの」と
泣きながら叫んだし
黒沢明の赤ひげの一場面のように
私は父のベッドの上に登りながら
「お父さんーお父さんー!」と
ずっと泣き叫んだ

私は生きてきて
こうすればよかったみたいな
後悔はあまりない

まぁ日常でちょっとした事はあっても笑
過去振り返って戻りたいとかは
ない人だった

でもあの時だけは
職場の現場で義姉から電話をもらい
うるさくて、事務所に戻って電話した
その後も保育士の私は
ちょうど水遊びの時期で
短パンをはいており
それを急いで着替えた
職場から10分もかからぬ実家への道

薬局を通れば信号を待たずに行けたが
こんな時だからと信号待ちもしたし
実家につき看護士さんがくるかも…と
来客用の家に近い駐車場に停めず
駐車の面倒くさい
実家から少し離れた駐車場に停めていた

そこからも近い裏口ではなく
回って本玄関から入ったし

私は初めて
電話をかけ直さなければ
ズボンにはきかえなければ
信号待ちをしない道を選ばなければ
駐車場も玄関も近い方を選べば…と
父が息があるうち会えたかもしれない…

あの時!あの時!あの時!と私は
初めて自分の行動に後悔をした…


看護士と医師を待つ間
私は亡くなった父の亡骸の隣に
ずっと泣きながら冷たくなった手を握り
添い寝していた

私はとにかく泣いた
納棺でも火葬でも葬儀でも
親戚の目など関係なく
何もできなくなるぐらい泣いた

幼き頃から私は泣き虫だったが
あの時私は、48歳の大人の「郁」ではなく
父が幼き頃に呼んだ
小さな「いくたん」でしかなかった


教師だった父
私はそれが自慢だった
いっぱい泣いたが
一般焼香もだが
葬儀場に父がいる間
父を慕う方が続々きてくださり
葬儀場の方がいうには
コロナ禍のこのご時世の中
かなり多かったとか

その為、葬儀場の判断で
通常の設定よりもだいぶ早く
一般焼香は2時間以上前から始まった

父の最期の教員生活は
私とすれ違いで私の母校だったので
知った先生達や私の担任と顔馴染みも
多かったし
父の生徒だった方や
又父の歌を歌ってくれた方と
挨拶で立っていたが
列になり並び
父の思い出を語ってくれたり
父を想い泣いて下さる方と
共に泣けることは本当に幸せだった



そんな父は作詞家でもあり
私は合唱コンクールで中3になると
父の歌が課題曲になるので嬉しくて
私も絶対歌うのが夢だった
とは言え、中3になると
私は歌う方ではなく
父の歌のピアノ演奏をしたわけだが笑
私にとっては自慢の一つでもある

とにかく大好きな父だった

亡くなる3日前
そう母の誕生日直前に
「明後日死ぬから」と父は言い
一昨年に亡くなった姪がそこに来てると
よく言っていたらしい

母の誕生日を家族みなで無事過ごし
父は自分が死ぬと宣言した1日後に
亡くなった

前日まで実家に泊まっていて
もう言葉も発せない父から前日
「くたびれてないか?」
「ありがとう」と言う言葉をもらっていた

よく揉めた兄には
ずっと何も言わなかったが
亡くなる当日の朝に「ありがとう」と
言ったらしい

父は母、義姉、孫でもある私の甥っ子、私、兄と、ほぼでないような声でそれぞれに
ありがとうと言い旅だった



当日は家からだったので
朝早く目が覚め
仕事前に実家により
父の顔をみようと思ったが
なんやかんやと時間になり
実家に寄らなかった

でもだ
朝出勤している時
私の白龍とは違う黒龍が
私が走る車と共に飛んでついてくるのがわかり
あ…父の黒龍がきた…と
直感的にわかった

だから大丈夫かなと思ったが
今となれば父の最期を
教えてくれたのかもしれない

また父が亡くなった時
雲がほほない快晴だったが
我が土地の象徴の山の隣に
龍雲が飛んでいた

写真はもうないが
父だったんだと思う


私には白龍がいる
今は私の身体と重なっている感覚で
父の黒龍は私の頭上で
ずっと見守ってくれている


前にも書いたが
私は父の死でとにかく泣いた

「光になりましたよ」と励まして
くれた人もいる
「そばにいるよ」と言ってくれた人いる

確かにそうだし、ありがたかったが
大切な人の死は理解はできるが
そう簡単なものではない

姪のように突然の死よりは…と思っていたし
勿論色々気持ちの面で
整理をつけたつもりだった
又何も食べれなくなり
寝たきりになり
痩せて言葉も発せない
衰える姿をみて苦しくて
姪に早く連れて行ってと願ったこともあった

でもやはり実際いなくなると
本当に寂しくて
みていて辛かった父の姿だったが
それでいいから
生きてそばにいてくれるのが
どれだけ嬉しいかとも思った

そして光になったと言う言葉より
「会いたいね」とか
父の思い出を語ってくれる人の言葉が
どれだけ嬉しいのかを知った


でも準備できた分
父に「ありがとう。大好きだよ」とも
言えたし
姪の時のように影で泣いたり我慢せず
思い切り今もだか父を想い
泣きに泣いたことは幸せなんだと思った


とりあえず今日はここまで


その1ヶ月後
私は姪の命日の次の日倒れた…苦笑
1年もしないで大切な身内…
大好きな叔父を含め3人亡くし
実際はその後、大好きないとこも亡くし
4人一気に色々なカタチで
大好きな人か亡くなった


それから今日まで…
たくさん自分と向き合った

父の死ででてきた
小さないくたんのおかげで
ある意味、父の死で私は蓋をあけた


それについては
また書ける時かこう

まずは私の記録として…
やっと書けた


今日もありがとう



父の最期の手



姪同様
エンバーミングしてもらい
校長時代に作ったえんび服を最期にきせた
私は私が作った親子だるま棺にいれたよ




校長以外では
私の結婚式に着たのか最期だったな