435 -ふるさとの祭り、豚焼き | ikoma-gun(フリムン徳さん)のブログ

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(弟道雄撮影)


「ふるさとの祭り、豚焼き」    

 

毎年、12月25日、深夜の3時、南の小島、

フリムン徳さんの故郷、喜界島の小野津村。

突然に、ギャー、ギャーグヮー、グヮーと

真っ暗闇の村中に響き渡るような異様な

泣き声が聞こえる。命からからの悲鳴で

「助けてー、助けてー」と泣いている様にも思える。

これはワーの命限りの泣き声です

、最後の叫びの悲鳴です。

ワーとは島の方言で豚のことです。

 まもなく、この耳をつんざくような悲鳴が

村中のどの家からも聞こえだす。

真っ暗闇の村中がギャー、ギャー、グヮー、

グヮーという泣き叫びの声に包まれる。

これは世にも珍しい、ワー達の命限りの泣き声の

大合唱なのです。


これに人間たちのガヤ、ガヤの声も加わります。

舞台が真っ暗闇の村全体です。

合唱団の主役がワー達です。

脇役は人間です。それが夜中の3時開演です.

毎年に12月25日に行われる村の豚焼き祭りは

村中の人が興奮し、喜び、楽しむ一番

にぎやかな祭りでした。

子供の私達にとっては、クリスマス以上に

楽しい日でした。キリスト様 、クリスマスに

お許しください、


どの家の豚が一番大きか競う日でもありました。

豚焼きの2、3ヶ月前から、誰々の家の豚が

一番になりそうだと豚焼きの話題に

持ちきりになります。

ほとんどの家で豚を1頭か2頭飼っていました。

豚に餌をやる時でも、豚焼きで一番に

なるように願いを込めながら餌をやったものです。

ところが豚も大きくなる豚、痩せ豚と血筋が

あるようで、痩せた血筋の豚に当たると

一番になるのは難しいようでした。


うちのオメトおばあさんはそれをよく

知っていました。

大きくならない豚は餌のおいしいところを先に

食べて、おいしくないところは食べないで

残すそうです。


ところが大きくなる豚はまずいところから

先に食べ 、おいしいところを後に食べ、

一つも残さないそうです。

豚は知っています、ピザの周りの硬い

ところから食べるか、中の柔らかい

ところから食べるかを。

ふつう、豚の餌はサツマイモやその葉っぱですが、

うちはおじいさんが漁師もやっていましたから、

人間の食べ残しの魚を沢山やっていましたので

贅沢なモンでした。

だから、何回も一番になった記憶があります。


 この日、男手の少ないところは親戚や、

よその村の知り合いの男達に前の日から

きてもらって、豚焼きの手伝いをしてもらいます。 

私の家は1里離れた坂嶺村の付き合いのあった

家の男達にきてもらいました。


その時の男の人が私の嫁はんの父親だったのです。

どうも私と嫁はんは豚が取り持つ縁でもあるようです。

各家の庭の大きな木か、あるいは家の軒に

立て掛けられた梯子に頭、前足、後ろ足、身体を

ロープでぐるぐる巻きされた大きな豚が

逆さにつるされます。


「降ろしてくれ、ギャー、助けてくれ、

ギャー、ギャー、」と泣き叫びます。

どうして高いところに逆さにしてつるすのか

といいますと、喉元を包丁で切り開いて

豚の血を全部先にとるためです。

血のとり方には二通りあります。


喉元から包丁を入れて大静脈を切るか、

は直接心臓に包丁を入れて、一気に豚の血を

出しやり方です。下に置かれた大きな鍋に

とるのです。

大静脈から出る血はゆっくりですけど、

心臓からとる血は一瞬、吹き出してきます。

この光景を見たら、見慣れぬ人は思わず目を多い、

吐き気を催すと思います。


 血を抜いたあの大きな豚は梯子から降ろされて、

散髪されるのです。

体中の毛をそり落として丸坊主にします。

散髪されると黒豚はピンク色の豚に変わります。

豚の髭剃りはシャンプーは使いません。


何を付けて剃ると思いますか。

大きなな鍋でにたぎったお湯の中に灰を入れ、

その灰をシャンプー代わりに豚の身体に塗り、

前の晩、大勢の男達が晩酌をし、語らいなが」ら


よく研いだ大きな包丁で剃り落とすのです。

  焼いた豚の肉と骨を離して、塩付けにしたり、

豚味噌を作る。実際は味噌より肉の方が多いから、

味噌豚と呼んだ方がいいようだ。

保存された豚味噌は、正月、節句、祝い事、

法事に使っていました。もう一つ大事なことは、

東京、大阪など、内地にいる子供たちに


贈るのが習わしでした。

お茶入れの缶よりも少しい大きな丸い筒みたいな

缶に入れて郵便で送るのです。

捨てるところはひとつもありません。

内臓は血で、煮込んで唐ジュウリを作ります。


その当時、薩摩芋と味噌が主食だった

貧しい村人は牛肉というのを知りませんでした。

1年に1度の豚肉が貴重な栄養源だったと思います。


豚のおかげです。

だから村の人はこの祭りを「豚殺し」

とは言いませんでした。

「豚焼き」と言いました。

豚を料理する日でした。


でももう、この昔から続いた祭りも世の中が

贅沢になって、なくなったそうです。

贅沢は新しい祭りを作り、古い祭りを滅ぼすようです。