5月15日は、ナスカの地上絵の研究と保護に生涯を費やした女性、マリア・ライヘが生まれた日。ドイツ出身の数学者、考古学者。
(1903年5月15日 - 1998年6月8日)
1993年、ペルー政府より功労十字勲章 を授与され、1994年にはペルー市民となった。
現在、生前に住んでいた家がマリア・ライヘ博物館として公開されている。
皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。
【生い立ち】
ドレスデン出身。父マックス・フェリックス・ライヘ・グローセは、裁判官。母はアンナ・エリーザベト・ノイマン。
ドレスデン工科大学では、数学と天文学、地理学と外国語を学び、5か国語を話した。
【ペルーへ】
あるとき新聞で南米ペルーへの教師募集の広告を目にし、ナチスが台頭しつつあったドイツを出たいという思いから応募。1932年4月、ペルーに到着し、その時見たアンデス山脈の美しい風景に感銘を受ける。
そして、クスコにあるドイツ領事の子供たちの家庭教師として働き始める。
第二次世界大戦が勃発した際、彼女はドイツに帰国しない決心をし、ナスカ砂漠の上空を飛行中に直線と図形を発見する。
【ナスカの研究を始める】
アメリカ人の人類学者ポール・コソックと出会い、助手になる。ポール・コソックは1939年ナスカの大地に動物の地上絵を初めに発見した人物。
1946年、ポール・コソックが祖国北米に帰国した後も、1946年ナスカの研究を続ける。
【ナスカの地上絵の発見】
第二次世界大戦が勃発した際、彼女はドイツに帰国しない決心をし、ナスカ砂漠の上空を飛行中に直線と図形を発見する。
1941年6月、コソックはナスカの直線が南半球の冬至点に収束することに気付き、ライヘと共にナスカの直線の地図の作成を始め、天文現象との関連性を評価し始めた。
【ナスカは天文台だった】
後にライヘは直線が夏至点にも収束することを発見し、大規模な天の暦としての機能を持つと提唱した。1946年頃、ライヘは代表的な図形の地図も作成し、18の異なる種類の動物と鳥からなることを決定づけた。
彼女はナスカの人々がどのように大規模な図形を描いたのかを数学的に分析し、これらの図形に非常に洗練された高精度な数学が用いられていることを発見した。
ライヘは、地上絵は太陽暦および天体観測台として使われたという説を提唱した。
地上絵の全景を見ることができるのは上空からのみであるため、彼女はペルー空軍の協力を得て写真調査を行った。
【著書の発表】
彼女は、巨大な猿の絵はおおぐま座を模したものであると信じ、自説を "The Mystery of the Desert" という本に著した。
ライヘとコソックの功績は学術的な資源となった。
【ナスカを保護する】
ライヘは "The Mystery of the Desert" の利益を砂漠保存運動や、護衛やアシスタントを雇うために使った。
地上絵を道路による分断や様々な政府の開発計画から地上絵を守るよう提言したり、一帯への一般の往来を制限するよう政府を説得するなどし、自分の財産のほとんどをその運動に費やした。
1977年にはハイウェイの近くに観測塔を建設し、観光客が地上絵を見やすいようにもした。
【ナスカ世界遺産に】
ナスカの地上絵を国際的に知らしめることに成功し、彼女のこの貢献により1994年、ユネスコはナスカの地上絵を世界遺産に登録した。
1998年6月8日、リマの空軍病院にて卵巣がんのため95歳で死去。
遺体はマリア・ライへ博物館の庭に埋葬されている。
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