5月13日は、ハプスブルク帝国、オーストリアの女帝、マリア・テレジア が生まれた日。

(1717年5月13日 - 1780年11月29日)

 

神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者。

 

 

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

 

【生い立ち】

父は、東西両方面への領土拡張の結果、ハプスブルク君主国史上最大の版図を築き上げたカール6世。母は白肌の美しさで知られた皇后エリーザベト・クリスティーネ。

代々政略結婚と戦争により大国の地位を築いたオーストリアの皇女だったにも関わらず、マリアだけが恋愛結婚を貫く。

9歳のときに会った、ロートリンゲン国の15歳になるフランツ・シュテファンに恋をしたからだ。

 

【結婚】

1736年2月12日、アウグスティーナ教会で2人は婚礼を挙げた。マリア19歳、フランツ25歳。

結婚後4年のうちに3人の公女が誕生。

 

【オーストリア継承戦争】

本来、すすめられた結婚相手は、当時新興国プロイセンのフリードリ匕2世。1740年、彼はオーストリアに宣戦布告。マリア23歳。妊娠中だった。そしてここから長い戦いが始まった。

フリードリヒは大改革を行い、小国だったプロシアを軍事国家に押し上げ、肥沃な穀倉地帯シュレ-ジェンに侵攻。もうなすすべがなかった。

マリアの周りにはヨボヨボのおじいさん側近のみで軍は弱く、敗退を重ね、オーストリアは孤立する。が、マリアの決意は固かった。

 

【ハンガリー議会で演説】

1741年、男児ヨーゼフが誕生すると、子どもたちを引き連れ、ハンガリー議会で「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。

美しく力強い女王の姿は、好印象を与え、ハンガリーの女王となり、資金と兵力を得る。

マリアは、父より帝王学など受けたことはなく、直感で動き、そしてシュレ-ジェン以外の国土をフリードリヒより守り抜いた。

のちにフリードリヒ2世は「今のハプスブルク家では、稀に見る男性が統治している。ところがこの男性と言うのが女性なのだ」と評したそう。

 

【戦いは他のものに任せよ】

その後、生まれた子供は、12人。20年間で16人の子供を産んだ。

娘や息子のほとんどをフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族と結婚させた。

 

【晩年】

1765年、夫フランツが崩御。享年57歳。マリアは以後、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

1780年、マリア・テレジアは散歩の後に高熱を発し、家族に囲まれながら崩御。享年63歳。

病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという。

 

 

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