4月28日は、日本の洋画家、東郷 青児が生まれた日。(1897年4月28日 - 1978年4月25日)本名は東郷 鉄春。彼の描いた夢見るような甘い女性像は「青児美人」と謳われ人気を博し、昭和の美人画家として戦後の一世を風靡した。

独特のデフォルメを施され、柔らかな曲線と色調で描かれた女性像などで知られている。

1969年- フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを授与される。

1970年- 勲三等旭日中綬章受章。

1976年- 勲二等旭日重光章受章。東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設。

 

 

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

 

【生い立ち】

鹿児島県鹿児島市稲荷馬場町(現在の鹿児島市稲荷町)、母は、薩摩藩河野一郎右衛門の娘、はる。父、東郷実文が戦争により亡くなったため、

私生児として出生。

母は、その後、東郷家の入夫だった石本勘造と再婚。青児は、摘出子となった。

母方は、薩摩藩士時代から代々クリスチャンであり、姉が聖母像などを描いていたことから、絵画に興味を持つ。

幼少時に一家は東京・新宿に転居。1914年-青山学院中等部を卒業。

 

【初恋】

17歳。初めての恋愛が、大物美人画家、竹久夢二の元妻、それも15歳も年上だった。日本橋呉服町に竹久夢二が元妻、岸たまきのために持たせた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝うようになり、画力を磨く。

 夢二が留守にしている間、たまきとこっそり寝ていた青児。ある日、1日早く帰ってきた夢二に見つかり、バットで殴りかかられたのをかわし、裸足で銀座を走って逃げたそう。

 

【恋愛と結婚を繰り返す】

東郷の初の結婚は1920年9月。東郷23歳。妻は、関西 西宮の資産家、医者の娘だった永野明代(はるよ)。

妊娠中の明代を残し、明代の実家から援助してもらい、フランスへ留学。

1923年に関東大震災で日本は混乱し、仕送りも途絶えて、そのままパリに残る。東郷はモンパルナスの画家たち、セザンヌ、ピカソ、藤田嗣治などと交流し、大いに影響を受けた。

1928年に東郷は突然帰国し、第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品し、第1回昭和洋画奨励賞を受賞。

明代との愛情は醒めていたにも関わらず、3人の子供をもうけた。が、帰国後、運命の女性である19歳の盈子(みつこ)と出会ってしまう。盈子は、海軍少将の娘でクリスチャンだった。もちろん、ふたりは彼女の父親によって引き離されてしまった。

ショックを受けた青児は、英語塾を卒業したばかりで大富豪令嬢の中村修子と出会い、明代と離婚せずに1929年2月、修子と結婚披露宴をあげた。重婚だったが、すぐに修子は、実家に連れ戻され、別の男性と結婚した。明代とは、1933年に離婚。

盈子と復縁すると、今度は無理心中事件を起こす。ナイフで首を切り、ガス自殺だった。しかし、たまたま発見が早く、ふたりの命は助かった。

その後、事件の取材に来た小説家、宇野千代と意気投合し、どういうわけか同居をはじめてしまう。青児は家計を宇野の稼ぎにまかせて、ヒモのような暮らしを続けたそう。

青児と宇野千代の同棲を知り、盈子は北条千吉と1931年に結婚し、一女をもうけるも、青児と再会し同棲。1936年に北条と離婚成立後、1939年に青児と入籍し、翌年長女・たまみをもうける。宇野千代は、二人の復縁を知り、身を引いた。

長女・たまみによると、その後も青児の浮気は続き、晩年は夫婦の対話もなくなっていたという。

1978年、第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去。豊島区にある雑司ヶ谷霊園に眠っている。享年81歳。

 

 

 

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