3月26日は、ドイツ出身のピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスが生まれた日。(1884年3月26日 - 1969年7月5日)「鍵盤の獅子王」と称された。

ドイツ系ピアニストのエリートの中のエリート。

1966年にオーストリア共和国芸術名誉十字勲章を受け、またベーゼンドルファー社から20世紀最大のピアニストとしての意味を持つ指環を贈られる。

 

 

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【生い立ち】

ライプツィヒで誕生。幼い頃から母親にピアノの手ほどきを受け、7歳で入学したライプツィヒ音楽院でアロイス・レッケンドルフに師事。

11歳のときに、ブラームス本人の前で演奏し、賞賛されたそう。

13歳、フランクフルトにて当時全く弟子をとっていなかったオイゲン・ダルベールに1897年から師事した。

ダルベールは、フランツ・リストの愛弟子。バックハウスは、ダルベールの弟子になることで、ベートーヴェン、カール・チェルニー、リストといった正統派のジャーマン・ピアニストとしての礎を築く。

 

【ピアニストとして】

1900年、16歳の時にデビュー。1905年、パリで開かれたルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門に出場し優勝した。

1909年、協奏曲を世界で初めて録音するソリストに抜擢され、7月15日、ランドン・ロナルド指揮、新交響楽団(現ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団)との共演で、エドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲の一部を録音した。

1930年、スイス・ルガーノに移住。ナチスのヒトラーがバックハウスのファンだったことから、第二次世界大戦中、ナチスの宣伝に利用された。そのこともあり、戦後アメリカではナチ協力者としてバックハウスの来演を拒否する動きが起こった。1946年、スイスに帰化。

 

【日本公演】

1954年4月5日から5月22日にかけて日本を訪れた。4月22日には宮内庁において、香淳皇后や三笠宮妃の前で演奏、5月13日には日本赤十字社副総裁・高松宮妃の希望により、神田共立講堂において「ガン研究緊急援助資金獲得バックハウス特別演奏会」が実現し、終演後、高松宮妃から赤十字有功章が贈られた。

 

【ブロとしての最後】

1969年6月オーストリアのケルンテン州オシアッハにある修道院教会の再建記念コンサートに迎えられ、最終日のコンサートで、ベートーヴェンのピアノソナタ第18番の第3楽章を弾いている途中、心臓発作を起こし、一旦控室に戻った。

ドクターストップがかかったにも関わらず、後半のプログラムを一部変更して何とか演奏を終えた。「今夜の演奏会はシューベルトを弾いて終わりにしたい。」が最後の言葉だったそう。

バックハウスは直ちに病院に搬送されるも、意識はなく、弱りきった心臓はついに回復せず、1週間後に死去。彼が最後に弾いた曲は、シューベルトの即興曲 作品142-2。享年85歳。バックハウスはドイツのケルンのMelaten墓地に眠っています。

この両日の最後のコンサートは「バックハウス:最後の演奏会」(Wilhelm Backhaus: Sein Letztes Konzert)としてCDが発売されている。(最後の肉声も収められている)

 

 

【エピソード】

自分のことは多くを語らなかった。インタビューで休日の行動を尋ねられると、「ピアノを弾いています」と。

もともとインタビューもほとんど受けなかった。「インタビューを受ける時間があったら、少しでも練習したい」「私のインタビューなど聴いてもつまらないよ」「言いたいことは鍵盤で言っているから」 などと語っていたそう。

 

 

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