【映画鑑賞】
死去している女性詩作家、エミリディキンソン、彼女の生涯に関するドキュメンタリー風の映画。
全体を通じ、美麗な映像と静謐な世界観を背景に、ディキンソンの思想や性格、その苦しみや気高さ、美しさが家族や友人との関係性の中で描かれていく。
56歳、腎臓の病で死去するまで、生涯のほとんどを自宅で過ごしたディキンソン。
学生期、宗教女学校に所属するも、往来、才気煥発・嘘が許せない彼女は、神はいるかもしれないが自分にとっては
何の慰みにも、救いにもならないと、信仰を否定し、人生の一部となっていた詩を書き・出版し、生活することを決心するところから物語は始まる。
一週間をほぼ自宅の中で過ごし、他人は家族と時々現れる友人や、家族の知り合いとコミュニケーションをとる中で感じたことを詩にし、投稿する、それを繰り返す生活であった。
当時、1800年代のアメリカ南部において、信仰はほとんどの人の生活の一部として組み込まれ、受け入れられ浸透しており、当然、信仰を否定する彼女の考えは異端であった。
加え、彼女はうそを嫌い、憎み、異端であることを隠し、周囲に合わせること、それが結果的に、幸福な人生につながると理解していても、それは魂の堕落だと受け入れらない性格であった。
そういった性格のため、当然、周囲とは摩擦が起きるが、無条件の理解を示してくれる家族や、シニカルで皮肉屋だが、同じような考えを持つ友人の存在によって、満ち足りている人生を送っていた。
しかし、仏教の教えにもある通り、変わらないものは存在しない、人や世界はいやおうなしに変化していく。
兄弟や友人は次々と結婚をし、彼女が憎んでいる世間に迎合すること、羨んでいるが手にすることができない
普通の幸福を許容し享受していく。
そして、自分を曲げられない彼女は周囲との距離、自分以上に優先するべきものを持った周りに対し、次第に壁を作り
自己を閉ざしていく。どんどん気難しく、怒りっぽくなっていく彼女だが、家族や親せきは寄り添い、彼女の心のよりどころとなるような男性をつれてこようとするが、そんな親切心に対しても、怒りで壁を作り、反発し、ひどい態度をとり、
遠ざけることで、自分の世界を守り、閉じこもっていた。
そのまま、腎臓の病で56歳で死亡する。
最後まで世間に迎合せず、自身の魂の気高さを守り通した、彼女の生涯を鑑賞することによって、彼女の作品
を鑑賞するにあたり新たな視点を得ることができる、鑑賞者を選ぶ、静謐で哲学的な映画であった。
【所感】
孤高と孤独は表裏一体。
孤高であり続けるためには、妥協しなければならない、魂の純粋さを守るためには、孤独であり続けなければならないといったことを暗に主張してくるような映画であった。
日本では、西洋的なアイデンティティ文化の流入から、社会おける全体主義的な傾向が混然一体となって存在しており、
その狭間の中で、本当の自己と他人と接するときの社会的な仮面・ペルソナというものを作り上げて、
分けてとらえている。
そして、INTJは特に顕著だと思うが、その乖離が激しければ
激しいほど、つまり、社会に求められる多数派的な性格傾向から、自身の性格がかけ離れているほど、
本当の自分とか、幸せなのか何かといった、悩みに突き当たる。
だがその背景に、自分とはだれのものなのか、自己実現とはいったい何なのかより、深淵なテーマが横たわっていることを意識させられる映画であった。
映画の中で、繰り返し語られるが、キリスト教的世界観の中では、自分とは自分のものでなく、神の所有物である。
だからこそ、信仰に生き、信仰と異なる自己があれば、押し殺す(改変)し、生きていかなければならなかった。
現代も同じような状況だと思っている。
自分の意志は自分で決めるものとという考えが、当たり前のように受け入れられているように見えるが、実際は
お世話になってきた人への恩返しや、社会や周囲への貢献、そういった尺度で人の尊厳や価値は決められる。
つまり、自分が自分のものではなく、自分を一人前に育て上げてくれた社会のもので、人生はその還元をすることによって生きていかなければならないと暗に示されているのである。
それが悪いことだというのでは決してない。そういった価値観で育ってきた自分にも受け入れられる内容であるが、
時にそれができない人も分かっている。
この映画はそういった普段はなぜ、合わせてくれないのかと思ってしまうような人たちが内に抱える、葛藤や苦しみ、
そしてその美しさや崇高さを教えてくれる、自身の価値観を広げてくれるとてもいい作品だったと思う。
浅井リョウの正欲同様、多様性という言葉の持つ闇を普遍的なテーマとして照らしている。