時は平成、那覇の街並みは国際通りを中心に昭和の面影が徐々に消えつつあった。それでも変わらず観光客で賑わいを見せている。地元の人々はというと、那覇に隣接するショッピングモールへと民族大移動を呈している。この小さな島にも車社会の台頭は否めず、駐車場を有する大型施設の利便性は庶民にとって絶大なるアピール要素となっている。

 康子は地元企業に勤める四十代にして未だ独身、キャリアを積み重ね社会人として敏腕を発揮していた。そのせいかフットワークは至ってよく、父親の老後の支えにもなっていた。三郎はというと、老いてなお盛んとはならず、既に要介護老人の階段をゆっくりと確実に登り始めていた。一家は郊外に住まいを移し、のどかで静かな環境に暮らしていた。三郎は変わりゆく桜坂の街並みを知らないまま数十年の時を過ごしていた。

 とある日、前触れなく起こった出来事・・・その 始まり・始まりー。

「おい、今日は何日だ、鹿児島の取引先の連中が来てるはずだぞ、ママから電話なか

 ったか」突然三郎が叫んだ。

夜も更けた頃に起きるいつもの騒ぎに康子は思わず身構えると

「お父ちゃん、それって明日だよ、一日早いよ、今日はもう寝ようよ」 

すると三郎「いやっ、田中君がノアで待ってる、タクシー呼んでくれ行かないと」

今日の三郎は一筋縄ではいかない様子。康子は観念したように、三郎を引き連れて一路那覇の街へ車を走らせた。

道中三郎は「ここは随分道がよくなった 建物も増えたなー」闇に光る景色を眺めながら穏やかに語りだした。まるで先ほどの権幕がうそのように・・・。

「さあー着いたよ、お父ちゃんノアはどっちだっけー道案内頼むよー」康子も一芝居打って出た。

「こっちさ、ここ、この・・・あたり・・・んっ、どこだったかなー」

おぼつかない足取りでいつになく必死の三郎を片腕で支えながら康子は思わず苦笑。すっかり様変わりした通りを歩く2人のシルエットは、昭和の頃のそれと比べても明らかに精彩を欠いていた。 

そうこうしていると 「ここだな、そうここだ。康子、ちょっと覗いてみてくれ」 

三郎の弱々しい声。

それから康子は、一つ深呼吸すると勢いよくドアを開けた。

「ここはノアさんですか、田中さん来てますかー」 ひときわ大きな声を発した。

店の客が一斉に康子に注目、傍らでそこのママだけが 

「いいえ違いますよ、このあたりにはそんな名前のお店はありませんよ」と笑顔で

答えた。

「さぁて、おとーちゃんどうする、随分前のことじゃない⤴ 店があったとこ道路に変わってるさー ほらっ見てっ⤴」

「そうかぁー そうだったかーなんだか疲れたなー 帰るか、子供らも心配だし」 

えっ、子供・・・⁉ 誰が誰を心配するのやら、まったく本末転倒だ。

 この桜坂社交街と康子を結ぶ接点はまさに父三郎であり、そこに集う様々な職業の大人達だった。晩年の三郎はこの様変わりした街を受け入れられず、かつて行きつけだったバーに出かけたがり、そのたび康子との珍道中を繰り広げていた。見覚えのある長屋へさしかかると「ここだ、この店だ」と言っては中を伺うよう催促する。違うと分かった途端、我に返るといった一幕をくり返していた。その後幕が下りた車中では、決まって当時の事を流暢に語り出す。しかもしっかりと過去形で、それこそ酔いがさめたかのように・・・。車中では、康子の鼻歌がエンディングを伝えるかのように響きわたり、いつも通り帰路に就くのだった。

 康子は久しぶりに坂を登っていた。登りきるとふっーと息を吐き目を閉じ、幼い頃と同様、自身の心の声に浸っている。どれどれ康子の前頭側頭葉の思考回路は何と呟くのか、とくと覗いてみるとしよう。

「うちのお父ちゃんって、決まってお気に入りにタイムスリップするんだよなー、何

 と言うか・・・認知症ってやつはさぁ」

「あれはあれでお父ちゃんなんだよ、あのキャラに付き合うのも悪くなかったって

 思ってる自分もまた不思議な感じするなー」

康子は夢や希望を語り合っていた頃の父を心地よく思う一方、老いることに抗えない現実も目の当たりにしてきた訳で・・・。今、この場所で心の声と向き合うことで自身を癒すかのように、しばし余韻に浸っていた。

 幼い頃昇った坂道の先には、古びたそば屋も、猫殿の姿もみあたらない。そこは日差しあふれる通りへと姿を変え、洗練されたセレクトショップや小じゃれた小劇場が立ち並んでいる。

既に遺影となって鎮座する三郎は、今日も穏やかな笑顔を浮かべている。

 

                完