はじめに

 このページでは、呼びかけ人が各地を動いたなかで出逢った人たちのことや感じたことなどを、少し自由に書かせてもらいます。映画とは離れたことも出てくるかもしれませんがご容赦を。 

 なお、編集の都合上、書き込み日の日付を修正しています。

 

4.12 「確定した入場者第1号?」など

 今日は市外M町方面を回る予定で出かけ、ちょうど昼になったのでスマホで「レストラン」を検索し、出てきた店を訪れた。12時を少し過ぎたというのに車は1台も留まっていない。しかも駐車場には洗濯物が干してある。「大丈夫かな」と思いながらカウンターに腰かけ、「ランチを」と言ったら、「刺身か唐揚げになります」というので、「じゃあ刺身で」と答えたら、すぐに出てきたのを見て驚いた。確か「770円」と書かれていたが、こんな昼食としては豪華すぎるランチが、今どき770円で出てくるとは。そう思って店内を見渡すと、びっしりと書かれたメニューの値段は、おおむね安い。ざっと他の店の8掛け以下ではないか。しかも、その数の多さ。少し変わったメニューを頼んでも本当にでてくるのかしらん?いじわるにそんなことも思ってみたが、それはしなかった。で、料理のほうだが、この値段でも手抜きのない味、量に店主の心意気みたいなものが感じられて嬉しかった。私も主夫で料理の真似事もするのだが、もし同じ立場だったら、これだけのものを作ってこの値段で提供できる自信は、絶対にない。

 厨房で動いていたご主人は、私と同じくらいの年代だろうか。きっとプライドの強い方なのだろう。精算するとき、奥さんに「もっと高くしなきゃあ」と言ってみたが、「ほほほ」と笑って応えられただけだった。

 

 隣のY町では「前売券」を取り扱ってくれそうな店を探して、○○書店を訪れた。店に入ると、まるでひと昔前に戻ったようなたたずまいに驚く。低い天井。雑然とした店内。失礼ながら、私の地元の市だったら、こんな店では今どきやって行かれないだろう。

 出てこられた店主の女性にこちらの趣旨をお話すると、「私もこんな歳なので」と言いながら、少し迷っておられるようにも見受けられた。結局、それ以上無理強いすることはあきらめたが、店を出るとき、「たくさん来られるといいですねえ」と背中の方から声が聞こえてきた。

 受けてもらえなかった残念さはあったが、こんなひと声でもかけていただければ、また、新たな勇気がわくというものだ。感謝。

 

 3:00過ぎ、休憩を兼ねて知り合いのカフェを訪ねた。小さな店で、知る人ぞ知る隠れ家的な店なのだが今日は閉店間近というのに混んでいて、数名の女性の声がかまびすしい。店主の女性に「あとでお願いしたいことがあるので」と伝え、コーヒーをいただいた。

 隣のテーブルではお二人の女性が「アーラの佐渡裕のイベントは完売になったらしい」などと話しておられた。可児市にあるこのあたりでは一番大きなホールのことで、佐渡裕のことが日常会話に出てくるような女性は私の近くにはいない(多分?。男性も)のだが、それなりに余裕のある暮らし(文化的に、の意味です)をしておられるのだろうと思えた。

 コーヒーを飲み終えて店主にこちらの趣旨を伝えていたら、隣のお二人にもその内容が聞こえたらしく、次第にこちらの話に興味を持たれたようだった。そして店主が用事で席を立たれたとき、どちらからともなく話しかけ、やがてお二人とも映画好きで、この映画についても知っておられたことがわかった。「どこか近くでやるといいのにと思っていた」とも言われ、上映の日程をお伝えすると、さっそく手帳を広げ、書き込んでおられた。思わず私は「第1号です」と言ってしまった。これまで何人かの人にこの映画のことをお話しし、明らかに興味を示された方も何人かあったが、はっきりと「行く」と言っていただいたのはこの方々が初めてだった。目標300人に対し第1号・第2号の方とこんな状況で出会えるなんて。だから人生おもしろい。

 

 今日は、離れて暮らしている長男のところの3人目の孫であるI君の4歳の誕生日。本当なら家に呼んで一緒にケーキを食べたりしたいのだが、諸般の事情で呼べない。プレゼントの図書券を届けて帰ろうとすると、玄関で「じいじっ、帰っちゃダメ」と引き留める。コロナ禍真っ最中に生まれたこの子は、赤ちゃんのころ、上の二人のようには抱っこすることがかなわなかった。そのせいで、1~2歳のころはなかなかジイジ、バアバになつかず、こちらも寂しい思いをしていたが、4歳のこのごろは、その時の借りを返すようになついてくれている。こちらもそれをいいことに、会うたび思いっきりギューとしてから「なんとかレンジャー」の話に付き合っている。

 ギューとするとき、この子の温かさを思いっきり両腕やほっぺに感じ取りながら、大川小の遺族のことを思い出している。「いかんいかんそこまで入れ込んでは」とは思うのだが、今はそのことに夢中なので仕方ない。こうしてギューできることが当たり前である幸せを「申し訳ない」と思いつつ。

 宿題が出来てなかろうが、ときに憎たらしいことばを吐こうが、毎日、「ただいま」と帰ってきてくれることの幸せ。かみしめたい。

 

 

4.16 語り継ぐことの難しさ

 先日、市内のある地区で映画の説明をさせていただけることになり、出かけて行った。ここは私の父が生まれた地であり、当然小学校は父の母校である。この小学校で100年近く前、児童2名が校庭で、他の児童の目前で即死するというショッキングな出来事があった。映画で問題になった、まさに「学校が子どもたちの最期の場所」になってしまった、悲しい事故である。

 私は小さいころからこの話を父から何度も聞かされ、この学校の名を聞くたび、そのことに結び付けて考えてしまうほど、私にとっては「当たり前」の話であった。

 当然、地元の方も知っておられるものと思って話したところ、私と同年代の方でも「そんな話は知らない」とおっしゃった。他の何人かに尋ねても同じ答えであった。これは私にとっては軽いショックであった。「そうか、語り継がれて来なかったのか」という意味で。確かに100年近くも前の、しかも、思い出したくない話には違いない。しかし、である。

 事故の詳細については書かないが、父は自分が遺した書物の中でそのことについて、当時12歳のこどもであったとは思えないほどはっきりと、その瞬間のこと、前後の事情についても書き記している。自分の目の前でおきた大事故であったため記憶が鮮明であったこともあろうが、おそらく、後日、何らかの調べをしてこの記事を仕上げたのではないだろうか。改めて読み直すと、関係者の配慮がもう少し足りていれば、防げた事故だったのではないかという気がする。その意味で、人数こそ違うものの、大川小と通ずるところがあると思えるのである。

 

 私は人々の記憶とは別に、この小学校の公式記録のことが気になった。「記憶にも、記録にも、もし残っていないとしたら、余りにも浮かばれない話ではないか」そう思ったからである。しかし、岐阜県の図書館横断検索では、わが母校の伊深小学校の百年史は各地の図書館に所蔵されていることがわかったが、この小学校の百年史のことは出てこなかった。こうなれば現地で確認するしかない。

 

 そして、本日、学校に出向いたところ、やはり百年史は編纂されていないことが判明した。なれば当然、今の先生方がご存じなくても当たり前である。

 私はなぜ今ごろ、このことが気になっているかを校長先生、教頭先生に説明する上で、上映会のことに触れない訳にはいかなかった。5月に入ったら学校関係へもあいさつにあがる予定であったが、ここは成り行き上、最初の学校になってしまった。

 そのとき、職員室へ行かれた校長先生が「ありました」と言いながら戻ってこられた。手には和綴じの「沿革誌」が。そして該当年のところには、この事故のことが毛筆で書かれてあった。おそらく、印刷物ではなく原本と思えた。貴重な記録である。ただ、貴重なるが故に、ここに勤めた先生方の目に触れることも少なかったかもしれない。これは私の勝手な想像である。見れば父の書物とほぼ同様のことが記されているようだった。「いるよう」というのは、浅学の私には百年前の記録は読みきれなかったからである。それでも、確かに記録はあったのである。私は少し救われたような気がした。おそらく、校長先生、教頭先生も少し違う意味でそう思われたのではないだろうか。

 先生方が忙しいのを承知で、それでも出かけて行ったのは、せめて記録にだけでも残っていて欲しい。そこを確認しなければ、私の中のざわつきを鎮めることができなかったし、この上映会を進めるうえでの「棘」を抜いておきたい気持ちがあったからである。お付き合いいだだいた校長先生、教頭先生には改めてお礼を申し上げたい。

 

 語り継がれてこなかったことは、私としては残念でならないが、地区外の人間がこれ以上とやかく言う資格はないだろう。少なくとも語り継がれなかった側の人には何の責任もない。最後に3人で「忘れてしまいたい、でも、忘れてしまってはいけない事故だった。そういうことですよね」とうなずきあったとおりである。

 

 あと5年半で、この事故からちょうど百年が経つ。百年経ったからといって何かが変わるわけではないが、できることなら何らかの鎮魂行事が行われることを私は願っている。それが「忘れない」ための証になると思うから。そしてその時、私がまだ生きていれば、元生き証人として記録を遺してくれた父の代わりに、校庭の隅でいいから手を合わせることができれば、少しは父にいい報告ができるのではと、そう願っている。