くびれジーかつぷの嫁探しの終わり | ありのままアーティスト池内優介

くびれジーかつぷの嫁探しの終わり

いざバリ島。


思えば


「したい恋をする」

「愛されることは知ったから今度は愛することを知る」

「自分にとっての美を探す」


ということは、一年半前のバリ島からはじまった。


帰りの飛行機で


「結婚するくらいの人とか探してみるのおもしろいんじゃね?」


って思いついて、くびれじーかつぷの嫁を探し始めたんだった。


自分が究極に幸せになれる現実ってどんな現実なのか。


どんな現実なら愛せて、許せて、認めることができるのか。


それを追求することは、振り返ってみると、美を追求することに他ならなかった。


生まれて初めて希望を持ってみた。


喜びを知る旅は、喜びではないものを知る旅だった。


大量の悲しみを貪った。


自分にとっての素晴らしいものを知るためには、自分にとっての素晴らしくないものを知る必要がある。


なぜならこの世は相対的だから。


他がないとわからない。


クソがあるからクソでないものがわかる。


クソでないものを追求することが、喜びを、ひいては美を追求することだ。



ぼくにとっての究極の美は、無だった。


無心でいられること。

夢中でいられること。


くびれじーかつぷの嫁とか、いつか乳は垂れるしおばあちゃんになったら流石に抱きたいとかは思わないだろう。


無情に思えるかもしれないがそうなったら別れてもいいし、別れたくならないなら一生添い遂げたらいい。


自由だ。それが愛だ。


ぼくはぼくを無理させないし、

相手も無理させない。


みんなそのときそのとき好きに愛し、好きに離れたらいい。


でももしそれでも離れずにいたいと思える関係があれば、それは美しいと思う。


愛でも美でも、どちらでもいい。


つまるところ、くびれジーかつぷにこだわり抜いたけど、考えれば考えるほどくびれじーかつぷであるということに意味を感じられなくなった。


刹那的だからだ。


というか、この世のすべての概念という概念に意味を感じられないし、元々意味はない。


なぜなら相対的だからだ。


もう、刹那的でいいじゃんとなった。


もし命が儚く、刹那的で、まぁすべてが儚く、刹那的であるなら、そのとき夢中でいられたり、無心でいられることが一番幸せなんじゃないか。


ずっと死ぬまで夢中で、無心でいられたら、それはとても嬉しいことで、美しいことで、素敵なことなんじゃないか。


今はそう思っている。


一年半。

本当にいろんなことがあった。


希望を持ち、絶望し、絶望し、絶望し、無になった。


そしたら、なぜかまたバリ島に行く喜びを与えてもらう機会を得た。


再び訪れるバリ島で、何を得るのか。


とにかく楽しみである。


とりあえず、飛行機遅れてるらしいからヒマである。