沖縄はお盆だから
沖縄で最大ヒットと成った 沖縄芝居 首里子ユンタの元と成った 私達の先祖の話しをUPします。
沖縄演劇の最高傑作の首里子ユンタの元と成った話し。
私達の先祖がオヤケアカハチの乱の後、八重山蔵元の竹富島から石垣島に移転の時に、首里王府の知見役人として、八重山蔵元に派遣された、
のちの八重山統治の為に種を残した。
その事が小浜島で首里子ユンタとして残された。その実話にインスパイア刺激を受けた、真喜志康忠は脚色を加えて
沖縄芝居の大ヒット作の首里子ユンタを上演した。
2014/05/13 — 故・真喜志康忠原作の舞台「首里子ユンタ」(中江裕司監督)が那覇市の桜坂劇場で行われた。
盛大の中、幕を降ろした。 戦後沖縄が順調に復興の歩みを歩んだ時、 沖縄芝居も盛況して行った。 沖縄芝居の真喜志康忠座長は沖縄口が通じる、八重山の石垣島で興行を度々した、石垣島に来島して、気づいた事は琉球王家の門閥が石垣島にも多数いる事に刺激を受け、八重山と首里王府の関係の歴史を調べた。 八重山の正式な蔵元(行政機関)の初代の頭に成った方は、尚真王の子、王府の法司(三司官)の大新城親方池城安基と
八重山の頭(南走平家の頭の子孫)満慶(ミツケー・仲間満慶山英極「平維盛の子孫」)の娘 美呂真の間に生まれた、宮良親雲上池城安英が首里王府で学問を受けた 後に首里王府から大名職の名親雲上(ペーチン)を拝領、八重山に赴任して、八重山の頭職に着いた。
この出世話しが、首里子ユンタの歌と成った、南走平家の頭 平維盛が身を潜めた場所が、八重山諸島の離島(竹富町)で西表島以外に唯一稲作が出来る小浜島に平維盛は身を潜めた。家来は石垣島・西表島に派遣して稲作の開墾をさせた。
満慶は南走平家の頭の子孫。
満慶の名は代々 南走平家の頭の血筋に伝えられた。
美呂真は南走平家の巫女としての職務 ノロをしていた。
美呂真の名も安英の次女の巫女に伝えられた。
小浜島の美呂真の子 宮良親雲上池城安英の次女に巫女の名が伝り、
安英の子 次女の美呂真が八重山のノロの頭
大阿母志良礼に成る。
この歴史を小浜島のノロから聞き出した
真喜志康忠は首里子ユンタを沖縄芝居に書き直した。
本筋は当たっている、
池城殿内の本家の家譜(家系図の説明書)には、
一世 安基
父 尚真王
母 儀保之大阿武志良礼
長男 安棟の長女尚元王の夫人
次男 安昔 南風原親雲上(古波蔵家の祖)
外子 宮良親雲上安英 この人に二女あり
一女は大浜親雲上の祖母なり、二女は八重山大阿母志良礼となる。 先の石垣親雲上の妻なり、今の前 石垣親雲上の祖母なり。
長女は於那比戸 大浜親雲上政保の妻
次女は美呂真 石垣親雲上信本の妻、
外子の意味は本妻とは別の女性との子。
安英は首里に上がり、首里の本家の池城殿内で躾と読み書きの修行に入った。
そうして、いるうちに、大新城親方池城安基と本妻の間に安棟が生まれた。
安基は安英を八重山の頭に王府に推薦した。
安基の心は安棟に本家を継がせ、
安英は八重山の抑えとして、八重山行政機関の頭にした。
その事が、小浜島で首里子ユンタとして伝わっている。
故真喜志康忠は首里子ユンタの意味を小浜島のノロから聞き出し、沖縄芝居の史劇 首里子ユンタを書き上げた。
美呂真は南走平家の本隊の菩提を弔う為に、石垣島には、行かず、小浜島で島民に護られて一生を過ごす、
小浜島民は美呂真の為に海岸の浅瀬に石垣を積み上げ、魚が自然に取り残される人工のいけすプールを美呂真の為に作り美呂真の老後を守った。
私達の安英の子孫は現在まで代々と小浜島との関係は続いている、小浜島の祭りには、私の父
池城安政が彫刻して彫った、人物像が
安英の子孫の代表として、小浜島の祭りには参加している。
石垣島の宮良間切は小浜島の人々が開墾した、
代々、宮良間切の頭が八重山の頭職に着いた。
石垣島の宮良殿内の隣に池城殿内があった。
八重山の親雲上職の血筋には、
宮良親雲上安英の血筋が皆に入っている。