夜光貝と硫黄から紐解く、源為朝の沖縄渡来物語、「椿説弓張月」では為朝の沖縄渡来は二度としている。一度目は祖先の八幡太郎義家が戦没者の供養の為に放生会で放った鶴を為朝が捕獲して 解き放った、その鶴を京の帝がとても欲しがった、帝は放生会の為に八幡太郎義家の鶴を所望する。困った為朝の父源為義は易をたてて占ってもらうと琉球を訊ねれば必ず百日の内に鶴を獲る事が出来ると言う。源為義は九州に逃がした息子の為朝に帝の愛鶴の探索を依頼する。そこで為朝は帝の愛鶴の捕獲に琉球へと船を進め渡る。・・・薩摩と琉球の関係は古い、鑑真和上は遣唐使の南海ルートの琉球経由で薩摩の坊津に着いた。鑑真和上は日本本土 渡来の途中、阿児奈波(あこなわ)で上陸し休息したと述べている。「唐和上東征伝」に おきなわの名前が歴史上に登場する。当時の沖縄の物産は琉球列島産の夜光貝でヤコウガイは、光沢の美しさゆえ古くから工芸品に使われており、平螺鈿背八角鏡など、正倉院の宝物にも螺鈿として用いられている。螺鈿や酒盃などとして、日本本土で多く消費されていた。そしてもう一つの物産は硫黄鳥島 から産出される硫黄である。 硫黄は黒色火薬の原料であり、燃える石として日本刀などの鋼の製鉄の燃料に利用されていたと思われる。当時の沖縄は日本商船の間で鉄との交換物産として夜光貝と硫黄を交易に使ったと思われる、故に薩摩と琉球は交易上近い関係にあった。琉球征伐(1609年)の後1611年、琉球の尚寧王と三司官は、「琉球は古来 島津氏の附庸国である」と述べた起請文を提出させられた。源為朝は薩摩平氏の平忠国の婿で有る。九州水軍を使って琉球に渡来したと考えられる。為朝と船に関しては記事が保元物語・現代語訳に二ヶ所有る、引用したい、 白河殿での兄義朝との攻防戦、「怖じているからこそ そうなるのだろう。八郎(為朝)は筑紫(九州)育ちで、船の中で遠矢を射て、歩兵の戦いなどは知らないし、馬の上での わざは、坂東の武者にどうして及ぶものだろうか。者ども駆け寄って組め」 とある。流刑地、伊豆大島から鬼が島に渡る場面でも。「(八郎)御曹司(為朝)は西国では舟をよく訓練なさっていたので、舟を損ずることもなく押し上げて(島を)ご覧になると、」・・・物書きは時に 真を突く場合がある。保元物語の著者は無意識に源為朝と薩摩水軍の関係を書き上げている。保元の乱の敗戦処理で為義の男子の子供は長男と八男以外は皆 斬首された。長男源義朝は平治の乱で平清盛に負け敗走し討ち取られる。八幡太郎源義家の孫で生き残ったのはただ1人、鎮西八郎源為朝だけある、流刑の地伊豆大島で憎き平氏の 追捕使(ついぶし)を見て、源為朝は怯えるか、氏神の八幡大菩薩はどう加護する。為朝を自害させるか遁走させるか。江戸時代のベストセラー作家、滝沢馬琴は源為朝の琉球渡来説を採用し椿説弓張月で源為朝を伊豆大島から琉球へと流した。私はやはり八幡大菩薩は氏子の源為義の血筋を残す為に戦乱の少ない琉球に避難させたと考える。故に椿説弓張月は八幡大菩薩が滝沢馬琴に書かせたと思う。滝沢馬琴は述べている。気を使って真を書き上げたと。私は保元物語を読んでの感想は 八幡大菩薩は伊豆大島から源為朝を琉球に逃がしたと感じた 為朝の琉球渡来を確信した。そしてダウジングはそうだと回った。