聖徳太子につて述べる。 | さだー池城貞志のブログ

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厩戸皇子(うまやどのおうじ)。母君が馬の司の役所に来た時に産気が出て太子は安産てすぐに生まれたから、名前がうまやどになった。用明天皇の第二皇子とされ、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女、推古天皇のもとで、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣した、冠位十二階や十七条憲法を定める、神道派と戦になり、勝利して仏教を厚く信仰し興隆につとめた。大聖人は「四条金吾殿御返事 告誡書 」で述べている。{聖徳太子生まれ給(たま)へり用明の御子敏達の甥なり。御年二歳の二月、東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利掌(みて)にあり。是れ日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云(い)はく「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊めば則ち禍(わざわい)を銷(け)し福を蒙(こうむ)る之を蔑(あなず)れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、(中略)皇勅(みかどちょく)して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔(おとどみことのり)に随う可しとて遂に法師を引いて内裏(だいり)に入る豊国の法師是なり、物部の守屋大連等大に瞋(いか)り横に睨(にら)んで云
く天皇を厭魅(えんみ)すと終に皇隠れさせ給う五月に物部の守屋が一族渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せて戦う、五月六月七月の間に四箇度合戦す、三度は太子まけ給う。第四度めに太子願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と。馬子願て云はく「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なのつて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧(よろい)に中(あた)る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見(とみ)の赤梼(いちひ)と申す舎人(とねり)にいさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中(あた)りぬ、秦(はた)の河(かは)勝っをちあひてが頸(くび)をとる、此の合戦は用明崩御(ほうぎょ)・崇峻(すしゅん)未だ位に即(つ)き給わざる其の中間なり。第三十三崇峻天皇位につき給う。太子は四天王寺を建立す。此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興寺(がんごうじ)と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、}「平
成新編日蓮大聖人御書・目次」へ、ネットで検索出来ます。p1175より,聖徳太子の過去世は南岳大師です。