池さんで働くおばさんの日記

池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

春の雨のことを検索したら、たくさんの言葉が見つかった。

「春」がつく季語は、

春みぞれ・春夕立・春しゅう雨・春雨・春時雨など。

 

他にも、

暖雨・四温の雨・木の芽おこし・木の芽流し・草の雨・紅の雨・万糸雨・春風膏雨・養花の雨・静雨・桜雨・春霖・・・

 

すべての言葉に意味があり、どんな雨か想像できる。

まことに、いにしえの日本の人々の感性の豊かさに、いまさらながら感動する。

 

桜が散り、温かい雨が降り、土がうるおされ、草木が芽吹き、田畑が耕され、耕作の新しい1年が始まるような春。

 

美しく咲いた20年目の桜の木は、桜しべを振り散らせ、玄関前のサクランボの木は、今年も緑色の固くて小さな実をつけた。

去年剪定した花梅もたくさんの新しい枝を伸ばしている。

 

寛容さを失った自己中心的な荒れた時代の中で、移り変わる時代の中で、不幸な出来事が続く世の中で、

それでも季節は廻るのだと、穏やかで優しい雨が教えてくれることを祈りたい。

 

デイの利用が始まって、小さな心遣いと想いを積み重ね、緊張感を感じながら時間をかけて向かい合い、少しづつ少しづつ距離を縮めて、初めて心からゆるっと笑ってくれた時、ちょっと冗談を言ってくれた時、量を増やしたご飯を全部きれいに食べてくれた時、、、ホッと心が緩む。

 

だからといって、もう大丈夫というわけではなく、やっぱり緊張感を感じるのだけれど、でも、謙虚さを忘れてはいけないと心に言い聞かせる。

 

人に対する心のありか、相手に対する心のありかは、

簡単にあらわになる。

作り上げる時間より、壊れる時間のほうが、はるかに短い。

 

利用者と介護者という一方的な関係でないからこそ、お互い人と人という関係を大切に思うからこそ、独りよがりの勝手な思い込みと、双方の感情の行き違いこそが関係を壊してしまうという単純な人間関係の基本を忘れることなく、過ごしてゆきたいと思う。

 

さっきまで優しかった春雨は、時間がたって驟雨になり、

春驟雨は、更に激しさを増しつつある。

 

山火事の場所に、この雨を送りたいのだけれど。

人の力ではどうにもならないのもまた、自然なのかもしれない。

 

自然と人の営み、人と人の関係、

心に思うことは、あまたありて今宵も終わりなし。

 

 

 

新しい人がやってきた。

個人的には、ずっと以前から面識があったけど、デイの利用者として再会。10年ぶりくらいの再会。

80代のその人は、かつて元気だった頃とあまり変わらず笑顔でやってきた。

笑顔のその人は、聾者。

いつも会うたびに、満面の笑みとオーバーアクションで会えたことを喜んでくれていた。

会話は簡単な手話を使う。

相手が手話を使わない人なら、その人も手話をあまり使わない。身振り手振りと、読唇で、大事な事は筆談で会話をしてきた。

もう長い間のお付き合い。

 

その人は、池さんに毎日やってくることになった。

以前と同じ、満面の笑みをたたえて。

 

池さんのスタッフも、満面の笑みと、少しの手話を使って、来てくれたことが嬉しいと表現する。

 

その人も笑顔でみんなの中に。

みんなも笑顔になる。

笑顔の輪が広がっていく。

 

池さんのスタッフは、毎日来ることになったその人のことを知りたいと思う。

もっと、話をしたいと思う。

だから全く縁のなかった手話をちょっとだけ勉強しているようだ。

「おはよう」と笑顔と手話であいさつするスタッフを見て、

笑顔がこぼれる。周囲の皆も笑顔になる。

 

その人と話したい、その人の心の中に気づきたい、何が必要か、何を思っているか、何を見ているのか、何を言おうとしているのか、、、想像することが必要なこと。

 

聾者だからではない。

目の前のすべての人の、心の中を見ようとすること。

知ろうとすること。

心のありかを想像すること。

そのことが大切なことだと、池さんが最も大切に想ってきたことだと、その人が気づかせてくれた。

 

おしゃべりでごまかせないからこそ、会話を続けることで修正できないからこそ、手話で複雑な会話をすることができないからこそ、一つ一つの場面で、想像力を持って関わっていくことが必要になる。丁寧に、丁寧に。

 

ちゃんと見て、顔を見て、想像し、表現し、行動し、支援する。

 

手をつなぎ、背中をさすり、一緒に笑う。

聞こえなくても、見えなくても、話せなくても、歩けなくても、表現できなくても、大丈夫。

私たちが一緒にいて、ちゃんと気づくから。

必要なことを必要なだけ、行っていくから。

と言って、皆に安心してもらいたい。

 

その人が来てくれて、

池さんは、

池さんという場と池さんの介護の原点に戻れたような気がする。

 

あ・り・が・と・う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月は逃げるというけれど、あっという間に時間がすぎてゆく。

20周年を終え、再び新しい次のステージへと新しい一歩を踏み出したと思っていたけれど・・・それにしても、時間が過ぎるのがとにかく早い・・・と感じる。

 

デイの利用者も入れ替わり、新メンバーが加わっている。

御年100歳もいるけれど・・・昭和二桁生まれが増えてきた。

戦後生まれも。介護の世界に来るには、まだまだ若い人たち。

80代90代の人たちと一緒に過ごすことになる現実を、その心のうちを想像しただけで苦しくなる。

介護する立場にありながら、いつも苦しくなる。

 

若年性アルツハイマーと診断された私と同い年の女性がいた。

わからなくなってゆくことへの不安、わからない自分への不安、将来への不安、抱えきれないほどの不安に押しつぶされそうになりながら、それでも毎日を生きてゆくしかない彼女の心の中を想像するだけで、自分と同じ年だと思うだけで、いつも、胸が苦しくなっていた。

 

それはただ、「介護される立場になったのだからみんな同じよ」と言って簡単に割り切れるものではなく、「生きてゆく」という道のりが、ある人にとってどれほど残酷で苦しいものかということを理解するしかないという現実を突き付けられたような気がして、いつも胸が苦しくなっていた。

 

葛藤し混乱する彼女といた時間は、どこまで受け止めることができるのか、私自身の力量を試されているようで、私にとっても悩める葛藤の時間だったように思う。

 

若くなくても、年老いていたとしても、わからなくなってゆく不安は誰にとっても、大きな苦しみに違いない。

施設へと変わっていったその女性が、今どうしているのか知ることはできないけれど、不安に満ちた毎日が少しでも穏やかなものになっていてくれたならうれしいと心から思う。

 

介護の現場もずっと同じというわけでなく、

20年の間に変化して、介護される人々も、かつての「老人」ではない。

家族の形や姿も、時代と共に大きく変化している。必要な支援を的確に行える制度であるはずの介護保険という制度も、アップデートを続けてゆかないと、時代の中に埋もれてしまうような気がするのだけど。

この先一体どうなるのだろうか。

将来の見通せない現実は、病でないとしても、ただ、不安でしかないという話。

 

昨年の今頃、今日のように暖かい日、梅の花のきれいな場所に夫と出かけた。

一面に広がる紅白の梅の香りを身体中に浴びながら、孫が結婚することや池さんのことなど、いっぱい話をして、穏やかな時間を過ごした。

あれから1年。

 

人生に不安はつきものだけど、寄り添う人がいることが、どれほど心強くなれるものか。

たとえ病であっても、疾患を抱えていたとしても、

隣に寄り添ってくれる人がいる、いつも一緒に考えてくれる人がいる、ただ、それだけで、穏やかに生きて行ける、と思うから、

そんな池さんでありたいと、改めて思う今年の春。