平成27年10月16日
(金) 第8日目
6:00 「ヘンロ小屋」を朝早く出発し、焼山寺に次ぐ難所といわれる鶴林寺に向かう。朝から本格的な雨になった。
(写真は晴天時)
「お遍路は天候に心を左右されてはいけない。どのような天候であっても、すべて修行と受け止めて行動しなさい」と云う人がいるが、そういう心境にはなかなかなれない。
登山口の遍路石
ヘンロ小屋から南に500m程、民家の間を縫って進むと「鶴林寺へ20丁」と記された遍路石がある登山口に着く。
ここから急な登りの遍路道となるが、道は簡易なコンクリート舗装になっており、雨の山道は助かる。
普段は足に負担の少ない土道を好むが人間とは勝手なものである。
昔から斜面を利用した農業が盛んなようで、遍路道は苔むした石積みの段々畑が連なっている。
この地方は蜜柑やすだち等の柑橘類が特産らしく、石垣もその果樹畑ようだ。
茅葺き遍路休憩所
途中に茅葺き屋根の広さ6坪程の遍路休憩所とトイレが作られている。
徳島の茅葺き技術を伝承するため、地元の人々が中心となり、神山町から取り寄せた7トンの茅を使い、つるぎ町の職人から指導を受けて完成させた。
(その後、茅葺き屋根はトタン葺きに変わっている)
水呑大師
歌碑
みかん畑の間を縫って1.5km程登り、水呑大師の祠と水場に着く。
傍に歌碑も在り、次のように刻まれている。
世の人に 永久に残せし
岩清水 大師の慈悲を
心して呑む
遍路道
幸いにも何時しか雨も止み、青空には白い雲が浮かび山並みも鮮明になって、遍路道より眼下を望むと那賀川の清流がキラキラと輝いて蛇行している。
何度見ても素晴らしい景観である。
那賀川を望む
麓から3km程の遍路道を車道を2度横断して1時間ほど歩くと、最後の石畳道がある。
寺まで900m
上り道とはいえ濡れた石の上の落葉は滑るので注意して進むと、老樹を背景にした仁王門が見えてきた。
石畳
7:15 標高500mの
鶴林寺に着く。
ヘンロ小屋より3.5km
第二十番 霊鷲山鶴林寺
高野山真言宗
ご本尊 地蔵菩薩
開基 弘法大師
地蔵菩薩真言
おん かかかび
さんまえい そわか
御詠歌
茂りつる 鶴の林を しるべにて
大師ぞいます 地蔵帝釈
仁王門
昔から阿波の難所を示すものとして、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍寺」という言葉がある。
鶴林寺は寺の名前から「お鶴」や「お鶴さん」という親しみと畏敬が込められた愛称で呼ばれている。
六角堂
静かに佇む反りの美しい仁王門を潜ると、仏師運慶の作と伝えられている仁王像が迎えてくれる。
運慶は平安時代から鎌倉時代に活躍した奈良の仏師で、師は父の康慶。
温雅な平安後期の彫像を超えて写実性に富んだ力強い鎌倉様式を確立した。
代表的な造像は康慶の指導の下に制作した奈良円成寺の大日如来、神奈川浄楽寺の阿弥陀三尊・不動明王・毘沙門天がある。
他に快慶らと競作した東大寺南大門の金剛力士、興福寺北円堂の弥勒菩薩像等、枚挙にいとまがない。
金剛力士像
金剛力士像
山門を入ると右手に、弘法大師作と伝えられる砂地蔵尊六体を祀る六角堂が在り、境内は杉、檜の大木に囲まれた霊地である。
老杉が覆う参道
しばらく参道を進むと左手に手水場があり、右に
70段の石段がある。
石段の右に忠霊殿、左に不動堂と大師堂が建ち、石段を上り詰めると本堂が威風堂々と建っている。
本堂への石段
本尊の地蔵菩薩は木造の平安期の仏像で、国の重要文化財に指定されている。
「矢負い地蔵」の別名があり、猟師が猪を射た矢を身代わりになって受けたという。猟師は殺生を悔いて自ら命を絶った。
山門の近くに猟師塚が残り、山や海で働く人々の信仰を集めている。
本堂
寺伝によれば延暦17年に、桓武天皇の勅願によって弘法大師が開創した古刹である。大師がこの山で修行中に雌雄の白鶴が、杉の梢で小さな金の地蔵尊を守護していた。
大師はそれを見て、霊木に3尺の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の、地蔵尊を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定められた。
境内の雰囲気が、釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号に頂いた。
白鶴が舞い下りたと伝わる、御本尊降臨之杉は
本堂の左手にある。
地蔵菩薩像
本堂を守る青銅製の鶴の像は高さ3m程で、右は羽を広げ天に向かって飛び立つような姿、左は嘴を閉じて静態している。
左の鶴像
右の鶴像
桓武天皇の勅願所だったこともあり、平城、嵯峨、淳和天皇の帰依も深かったと云われ、源頼朝も寺の改修を行っている。
寺は難所ゆえか、天正年間の兵火を免れている。
標高500mの険しい山道は甲冑姿では辿り着けなかったのだろう。
その後、阿波藩祖・蜂須賀家政などの信仰も受けて栄えた。
大師堂
三重塔
本堂の周辺に鐘楼、三重塔がある。
三重塔は江戸時代に建てられ、各層はその様式が異り、和様・唐樣の代表的建築物である。藩政時代に建てられ、徳島県で残っている最古の三重塔で県の文化財に指定されている。
鐘楼
修行大師像
寺宝の絹本着色釈迦三尊は国の重要美術品に、地蔵来迎図も県の文化財に指定されている。
不動明王像
地蔵菩薩像
参拝を終えて、太龍寺に向かう。遍路道は手水場の傍から下がって行く。
下りの遍路道
40分程険しい山道を足元に注意しながら下り、県道283号線を横断すると八幡神社が在り、神社のすぐ横に休憩所があった。
八幡神社の東屋
さらに遍路道は廃校になった小学校の横を下り、県道19号線に出て右折すると那賀川に沿った大井の集落にも休憩所があった。
ここは標高50m、再び標高520mの太龍寺を目指して那賀川に架かる水井橋を渡ると、渓谷沿いの遍路道に入る。
大井集落の休憩所
周辺の案内板
青々と透き通るような清流に、若葉を映して流れる那賀川は小石の河原に下りて遊びたい気分にさせる。
昔の遍路も川の水で喉を潤い、河原で旅の疲れを癒したことと思われる。
「娘巡礼記」の著者、高群逸枝は大正7年,24歳の時、四国へ旅立った。
熊本から大分まで歩き、大分で出会い、お供として同行する伊東宮治老人との二人旅である。
家を捨て職を捨て,恋を捨て,再生を目指し。
女性の旅行が好奇の目で見られた時代、旅先から送られたその手記は新聞に連載され大評判を呼ぶ。
「娘巡礼記」のなかで、「太龍寺山を降りて行くこと三十丁。
那賀川の渡し場に着く。
水はやや多けれども、さして激しからず。無事に対岸に上がることを得」とあり、渡し舟で対岸に渡ったことが記されている。
今から100年ほど前の昔のことであったが、今は水井橋で簡単に渡ることが出来る時代になった。
那賀川
遍路道は若杉谷川を左・右に見ながら、谷川に沿って緩やかに登って行く。
昼でも薄暗く、まさに幽谷の静けさだ。
渓流沿いを上る
20分程登って行くと東屋と「四国のみち」の案内板が在り、「若杉山遺跡・太龍寺まで1.8km」と書かれている。
四国のみち
天気の良い日は疲れれば道端に座り込んで休憩できるが、今日のような雨降りはそういう訳にいかない。
靴の中はじゅく じゅく、靴下を脱ぐと足の先は白くふやけている。
雨合羽から染み込むのか蒸されるのか身体中が濡れて気持が悪い。
人が居ないのを幸いに裸になり、着替えて休憩すると元気が少し回復したように思う。雨の日の東屋の有り難さを改めて思った。
東屋
初めての遍路の時は休憩する前に豆で痛い足を、渓流に浸し放熱すると非常に気持好かった。
暫く休んでいると後から来た中年女性遍路も同じことをしていた。
女性とは平等寺門前の民宿で、同宿となったことを懐かしく思い出した。
本格的な遍路道
休憩を終えて暫く歩くと、遍路道は渓谷を離れ本格的な遍路道になる。道沿いに「太龍寺・是より12丁」の丁石もあった。
四国88ヶ所の「遍路道を世界遺産」にいう動きもあるとに聞くが鶴林寺、太龍寺の遍路道はその価値があると思った。
丁石