熊野古道には伊勢と熊野速玉大社を結ぶ伊勢路、
その伊勢路の花の窟から分かれて熊野本宮大社に向かう本宮道のほか、大坂から和歌山を経て熊野に至る紀伊路、田辺で熊野本宮に向かう中辺路と、そのまま紀伊半島を海岸線沿いに那智へ向かう大辺路、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路、吉野から熊野本宮へ向かう奥駈道とも呼ばれる大峯道などのルートがある。
今回は中辺路を歩く。
平成21年9月 7日
(月) 1日目
JR坂出を5:49発の快速マリンライナー4号で発ち、JRを乗り継いで紀伊田辺に着く。田辺駅前から路線バスで市街地を抜け、九十九王子の稲葉根王子跡前から歩き始める。
九十九王子とは熊野古道、特に紀伊路・中辺路沿いに存在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達を務めた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社を云い、参詣者の守護が祈願された。
10:50 一ノ瀬王子に
向かって歩き始める。
稲葉根王子の跡
稲葉根王子跡から一ノ瀬王子までは、朝来街道と呼ばれる国道311号線から、市ノ瀬橋で富田川を渡り田園地帯を歩く。
富田川は奈良県の安堵山を源とし、中辺路町から大塔村を経て上富田町の中央部を流れ、白浜町富田で紀伊水道に注ぐ全長46kmの川である。
川名の由来は、水田を豊かに富ませるという意味だと伝えられている。
古くは上流を栗栖川、中流を岩田川、下流を富田川と呼んでこの付近を一ノ瀬と云う。また上流の中辺路町北郡付近から河口にかけてオオウナギが生息する川として、国の天然記念物に指定されている。
市ノ瀬橋
平安・鎌倉時代の熊野参詣で、初めて出会う熊野の霊域から流出る川で、最も神聖視された川である。
稲葉根王子から熊野の霊域の入口である滝尻王子まで、参詣者は10何度と岩田川を徒渉しました。
熊野から流れる清らかな川の流れを徒歩で渡ることで罪業を拭い去ることが出来るとの考えであった。
一ノ瀬王子石柱
11:30
一ノ瀬王子に着く。
天仁2年(1109)に参詣した藤原宗忠は19度も渡っており、建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家も岩田川を渡り、この王子に参拝している。
藤原定家は治承4年(1180)から嘉禎元年(1236)までの、56年間を「明月記」という日記に残しているが、後鳥羽上皇の参詣に随行した様子が克明に記録されている。
一ノ瀬王子社
上皇や女院も徒歩で渡り、「女院が渡る時は、白い布を二反結び合わせて、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と応永4年(1427)に参詣した僧実意(じつい)は日記に書いている。
宝暦14年(1764)の古記録によれば、近世初頭に既に廃絶しており、その後、紀州藩の調査で旧社地が確定され、再興された際の棟札が伝えられている。
それによると社は表口2間・裏口1間の拝殿、境内は奥行き4間・幅3間であったという。
明治時代に春日神社に合祀されたが、昭和44年に現在のように整備された。
別名、薮中王子とも呼ばれ、その名の通り藪の中にひっそりと祠と石碑だけが残っている。
一ノ瀬王子から鮎川王子は加茂橋で再度、岩田川を渡り国道311号線を上流に向かって進む。
鮎川新橋の袂に鮎川王子跡の石碑が在り、鮎川新橋を渡ると鮎川王子が合祀された住吉神社がある。
12:10 住吉神社に着く。
「明月記」の建仁元年(1201)10月13日条に「これより歩いて岩田川を徒渉し、まず一ノ瀬王子に参り、次にアイカ王子に参る。川面は紅葉の浅深の影が波に映じて、風景が素晴らしい。深い所は股まで及ぶが、袴をかかげない」とある。
このアイカ王子が鮎川王子であろうと云われる。
住吉神社
鮎川王子と記されているのは、承元4年(1210)の藤原頼資の「修明門院熊野御幸記」に初見される。
鮎川王子は江戸時代には社殿もあり、王子社と呼ばれたが、明治7年に岩田川対岸の住吉神社に合祀される。跡地は田となり、王子田と呼ばれたがその後、その田も道路改修のために消失してしる。
住吉神社の鳥居の傍には、和歌山県指定文化財の「オガタマノキ」と呼ばれる大樹が聳えている。
オガタマノキ
住吉神社から川上に進むと、のごし橋の手前に「御所平」の案内板がある。
後白河上皇は永暦元年(1160)10月13日から、一か月間に及ぶ旅が熊野御幸の初めであったと云われている。
嘉応元年(1169)に法皇となり、建久2年(1191)まで30回余御幸されている。
御所平
御所平は熊野詣の道筋に在り、後白河法皇の頓宮(仮の御殿)があった場所と云われている。
下を流れる岩田川の瀬を御所の瀬と呼んでいる。
御所平を過ぎると、橋の袂に藤原定家の歌碑が在り、道中の夜の歌会で
次のように詠んでいる。
藤原定家の歌碑
そめし秋を くれぬとたれか
いはた河 またなみこゆる
山姫のそて
歌碑を過ぎて熊野古道の標識に従い国道と別れて、地道に入り道祖神と庚申塚の前を通る。
陰陽合体の道祖神で、さえの神と云われ邪悪なものをさえぎり、路の悪霊を除き旅人を守り、男女円満、縁結びの神として信仰されている。
道祖神と庚申塚
庚申塚は青面金剛で病魔や病鬼を払い除くとされ、縄でしばると失物が見つかると信じられている。
その先に対岸の「茶屋の壇とふるさとセンター案内板」と休憩所が在り、暫く休憩する。アスファルトの国道と違い地道は川面から心地よい風が吹いて少し疲れがとれたようだ。
やがて道は急な上りから緩やか下りとなり、舗装道路に合流して国道を横断する。軽自動車1台が通れる幅の北郡橋(つり橋)を渡り、上流に進むと「安珍と清姫」で有名な清姫堂と近くに、清姫茶屋がある。
清姫堂
清姫茶屋
延長6年(929)、奥州から熊野詣に来た修行僧・安珍は、真砂庄司の娘・清姫に一目惚れされた。
清姫の情熱を断りきれない安珍は、熊野からの帰りに再び立ち寄ることを約束した。約束の日に安珍は来ない。
裏切られたと知るや大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺すという「安珍清姫物語」の悲恋は「法華験記」に記され、「道成寺物」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られています。
更に岩田川沿いに上流に1時間余り歩くと、滝尻王子がある。岩田川と石船川の合流点に在り、「滝尻」の名は石船川の急流が、岩田川に注ぐ滝のような水音からきたという。
滝尻王子の石柱
15:00
滝尻王子社に着く。
滝尻王子は熊野九十九王子のなかでも特に格式が高いと崇敬されてきた「五体王子」のひとつである。
滝尻の地名は早く、藤原宗忠の参詣記「中右記」の天仁2年(1109)10月23日条に、王子が既に成立していたことを示す記述がある。滝尻王子は熊野三山の聖域が始まる入り口として古くから重んじられ、「中右記」には「初めて御山の内に入る」との添書きがある。
滝尻王子の鳥居
中世熊野詣の頃には宿所があったとも云われ、「明月記」にそれを示唆する記述があるが、詳細は定かではない。滝尻王子に至った参詣者たちは奉幣を行い、王子の目の前の流れに身を浸して「水垢離」を行ったと古い記録がある。
滝尻王子社
境内に休憩所や石船川対岸には熊野古道館が在り、熊野古道を中心とした中辺路の観光案内と歴史紹介を兼ねた休憩施設がある。
古道はこの社の裏手から、背後の剣ノ山の坂道を登って行く。急な坂道をしばらく登ると、「胎内くぐり」に到着した。
胎内くぐり
昔から岩と岩との隙間を這うように潜り抜けると、安産祈願になると伝えられている。
胎内くぐりのすぐ上に「乳岩」がある。奥州平泉の藤原秀衡は、妻が身籠ったお礼に熊野参詣をした。
秀衡はその旅に妻を伴う。本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、男子を出産した。
赤子を連れては熊野詣は出来ないと思ったがその夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
子は山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。この子が後の泉三朗忠衡である。
熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。
この伝説は熊野神々の霊力と慈悲を物語る逸話として、今も人々の間に伝えられている。
15:30 乳岩からさらに5分程上った不寝王子跡に着く。
不寝王子跡
不寝王子の名は、中世の記録には登場しない。
江戸後期の地誌「郷導記」(元禄年間)での記述が史料上の初出である。
そこでは、ネジないしネズ王子と呼ばれる小祠址についての記述があり、「不寝」の字を充てるとしているが、その存在は不明確であるともしている。
「続風土記」ははっきり廃址と断じており、滝尻王子社に合祀されていると述べている。
熊野の山々
17:00 標高330m、高原熊野神社近くの「高原霧の里休憩所」に着く。
来る道で高原熊野神社への分岐点を見落としたようである。高原熊野神社は熊野九十九王子ではないが、高原王子権現とも呼ばれ、古道に沿う歴史のある神社で最も古い建物と云われている。
当初の予定どうり、ここにテントを設営して野営の準備を始めると地元の人が現われ、「テント張りは禁止」と云われる。火は絶対使わないからと、再度頼んだが承知してくれない。
そのうち自治会長に相談して、自治会長宅の庭で了解された。山村には珍しいほど広い芝生の庭で、屋外にトイレもあった。深い山奥でどうしようかと思案したがここでも人の情けに与かった。
ともあれ1日目も無事終わったが、古い機種の携帯電話は圏外で自宅に定期連絡が出来なかった。標高はそれほどないが山深いせいだろう。
1日目の歩行距離
16.0km